アランの幸福論、幸田露伴の努力論、山本周五郎、フランクル、ヒルティ、そしてアルフレッド・アドラーと。自己啓発の巨匠たちが口を揃えて、仕事とは他者貢献、それすなわち幸福であるといいます。
これがもうひとつ腑に落ちない、ということないでしょうか?
私は、約30年広告営業を生業にしている今は経営者ですが、他者貢献とは、ビジネスそのものだと理解しています。そんな視点で解説をしてみます。
尚、この記事の心理学上の基礎知識については、アドラー心理学を根拠としています。
早速本題に入ります。
なぜ、他者貢献できないのか?
見返り無しの他者貢献で本当に喜び感じられるの?
アドラーは承認欲求を否定し共同体への貢献感を説くけれど、
ここに矛盾はないのか?
結局、他者からの承認は必要なのではないか?
他者の承認がなければ単なる自己満足ではないのか?
そんは風に思いませんか?
実はアドラー心理学も、自分の貢献を他者から感謝されることを否定はしていません。ややこしいですが、感謝や喜んでもらうのは承認ではありません。
感謝や信頼というのがアドラーが基本にしている人と人との繋がりです。ここには、承認というマウント感がありません。人間は、お互い自由な存在として尊重し合い、横の関係で繋がる方が楽しいのです。
また、さまざまな事象にどういう意味付けをするのかは、全て自分の主観、勝手です。ある行動を貢献と見るのか、ありがた迷惑や、お節介や、自己満足と見るのかは、自分の主観で行うしかありません。
そして、相手がそれをありがたいと思うかも相手の勝手です。ここは永遠に交わらないですし、交えないのが課題の分離です。
誰かにプレゼントをする場合、相手のことをあれこれ考えて、買い物をしている時って楽しい気持ちになりますよね?いわばあれが貢献感です。
誤解を恐れずに言えば、貢献感とはプレゼント感覚です。例えば「木彫りのクマ」みたいなありがた迷惑な贈り物だって、関係性ができていればきっと笑って玄関に飾ってくれますって。
利用され搾取されないか?
他者貢献に励んでも、相手に利用され搾取されるだけではないのか?そんな風に思いませんか?利己的な人っていますからね。これ、ちょっと分かります。
他者貢献は、自己犠牲とは違います。自分を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ自分の価値を実感するためにやることです。
自分が価値を実感できないと思う相手にやる必要はありません。相手が自分の貢献を当たり前のように搾取する人かどうか分からなければ、まずは、貢献してその後の関係で確かめましょうかね。
良かれと思ったことが結果的に怒られることがある
相手のためを思ってしたことが、結果的に怒られたというすれ違いもたまに起きるようです。
そもそもお互いの関係性の見方にズレがあるのかもしれません。状況を見極める目は磨くしかありません。
また、相手のために何か目に見える行動を起こすことだけが他者貢献でもありません。ただ笑顔を見せるだけ、ひと言声を掛けることもれっきとした他者貢献です。
どんなに相手が好きでも、いきなりカルティエのリングをプレゼントしては退かれます。まずは、ポケットのミンティア3粒くらいから始めましょう。
前述したように、感謝は承認ではありませんから、丁寧なコミュニケーションを少しずつ積み上げ、相手の態度を確かめながら進めていくてことも大事なことかもしれません。
自分に他者貢献できる力があるのか分からない
自分みたいなものが他者貢献なんてできるはずがない、なんて思ったことあるでしょうか?時に人は、自分の出来の悪さに落ち込んだりすることがあります。必要以上に自分の価値が低いと考えてしまうのです。
特に仕事というものは、その人の機能価値で実現されています。しかしこれは、後からいくらでも成長させることができますから、成長するんだという意欲の方が大切です。こんな時代、機能価値などめくるめく変容していきます。環境へ対応する意欲と努力の方がよっぽど価値があります。
そのためにも、人の存在価値を認める必要があります。存在価値を認めることができる人は、人間の土台がしっかりしているので、些細なことで揺らぎません。だから、伸びます。
これを基盤にしていない人は、機能価値の高低に一喜一憂し、常に感情が揺らぎます。すると、ますます機能価値が発揮できなくなるという悪循環に陥ります。
解決策は、ただひとつ。根拠なく自らの存在価値を認めることです。アドラーは欠点も含めたありのままの自分を認めることを自己受容といいました。
自分の存在価値を認められている人は、ただそこに居るだけで、貢献感を感じることができます。
仕事と他者貢献の関係
自然界で、身体的に劣等性を抱えた人間は、ただ、群れを作ったのではなく、分業という画期的な働きかたをするために社会をつくりました。
人間はなぜ社会を形成するのか?それは、働くため、イコール、分業するためです。生きることと働くこと、そして社会を築くことは不可分です。
われわれは働き、協力し、貢献し合う生き物です。
すべての仕事は共同体の中で誰かがやらなければならないことであり、われわれはそれを分担しているだけ。つまり、人間の価値は、どんな仕事に従事するかによって決まるものではありません。
格差があるとすれば、それは人間の価値ではなく、その時のたまたまの貢献の大きさです。
時間は未来から今へ向かって流れてきます。貢献できなくなった仕事は淘汰され過去へ流されていきます。逆に、その流れに合わせて、人生も仕事も、努力と学習で変えていければ、貢献のサイズも変容していきます。
他者貢献力を拡大する方法
他者貢献のサイズを大きく変容させていくためには、今・ここにすべてを集中させて、20分でできる特定の貢献拡大を目的にもたせた努力と学習の時間をつくり、これを毎日積み上げるのが有益です。まずは20分で構いません。集中できる時間にしてください。
「あの本を読む」「特定の人(人々)のための新しい貢献を考える」「他者に有意義な情報をSNSで発進する」何でも構いません。当日の目的を明確に持った時間にすることが大切です。これを続けること、習慣化がカギです。
アメリカの心理学者で、鬱病と異常心理学の権威であるマーティン・セリグマン博⼠は、人間の幸福とは3つの要素が揃うことで実現すると説いてます。
その3つの要素とは・・・「快楽・没頭・意義」この3つです。
快楽とは、レジャー、ショッピング、スポーツ、セックスなど、肉体または感覚を通し
て得られる幸福感。
没頭とは、仕事、趣味、研究などに没頭することで得られる幸福感。
意義とは、⾃分の⻑所を使って何かに人生を捧げることで得られる幸福感です。
この貢献の拡大には、成長という快楽、20分の没頭、貢献を大きくする意義と、3つの要素が全て含まれていますから、じっくり幸福感を感じとりながら取り組むようにします。
20分という時間は、没頭と継続を実現させるために設定したものです。あなたの集中力や継続力に応じて、要件を満たせるのであれば自由に変えて構いません。
そもそもアドラーは貢献感こそ幸福だといいました。この力を拡大し成長していくことが幸せの拡大の倍々ゲームであるように習慣を見直してみてはどうでしょうか。
まとめ
つまり、常にどう他者貢献するかを考え努力を続けるということだと、わたしは思うんですね。
なんてまとめると、めちゃくちゃタフな感じもします。しかし、その貢献感に、わたしたちは幸せを感じるように進化を遂げて設計されているわけです。
人生を楽しめば、うまくいく。きっとそういう風にできているはずです。
甚だ楽観主義者ですいません。。
「他者貢献できない理由と仕事で貢献する方法」
※参考文献
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