自分は自分、人は人。課題の分離を難しく感じる3つの理由と6つのケース

課題の分離

わたしは、アドラー関連の本を20冊は読みましたが、きっかけは「課題の分離」への興味でした。

もともと、私自身、自分の課題と他者の課題を極力分けて考える癖が長らくついていました。

しかし、こういう態度をあまりうまく人に説明することができずにいました。それをアドラー心理学に裏付けてもらえた気がしたのです。

この記事では、そんなわたし自身の考えも散りばめて、課題の分離を難しく感じる場合の理由と具体性のあるケースについて解説してみます。

課題の分離が難しい3つの理由

課題の分離とは、自分の課題と相手の課題を分けて考えるというアドラー心理学の考え方です。

相手の課題に踏み込むことは相手を支配することになり、自分の課題に踏み込まれることは相手の人生を生きることになるからです。

これが、少し難しく感じることがあるわけですが、その理由を見ていきます。

人を信じて生きる姿勢が前提

課題の分離を単に便利だからとか、悩まないですむための考え方のテクニックと考えているとちょっと突っかかる場合があります。

前述した定義ように、課題の分離はある意味生きるための指針であり、その前提には、もう少しだけ大きな人生への信念があります。

アドラー心理学には、人を信じて生きる、という姿勢が前提にあります。

例えば

根っからの悪人はいない。当人には当人のしかるべき事情がある。誰もがその事情の中で自分の「ためになる」ものとして自身の道を選んで生きている。

そんな風に

例え悪人でも、その人の人格までは疑わない考え方が根底に流れています。

他者の課題に介入しないという考えは、そういった人間の人格を信じ尊重する姿勢が前提になっていることを理解しておくといいと思います。

受容力アップのための習慣

人間の人格を信じ尊重し、他者と自分の課題を切り分ける態度は、自分の人格も信じ尊重するので自尊心を高めます。

自己肯定感という言葉が大流行していますが、自尊心は、ありのままの自分を受容する心です。

日常を生きていれば、ちょいちょい劣等感を感じてネガティブになります。内面に抱えた劣等感は、目の前の他者にも投影されて、またネガティブになります。

そんな劣等感は拗らせることなく、さっさと受容して前を向くことが必要です。

課題の分離で人格を尊重する生き方は、自分に与えられているものと、いないものを区別して、ネガティブもありのまま認める受容力を鍛える習慣を持つことになります。

課題の分離は、自己受容を助け、自他信頼を築いて、共同体感覚へと繋がっていく一連の工程の入り口のように思えます。

高尚すぎる言葉と言い回し

アドラー心理学は、実践できる心理学であるにも関わらず、様々なキーワードが高尚な言い回しであるところが玉に瑕です。「課題の分離」という言葉もとても学術的な言葉です。

そこで、わたしの脳内では「自分は自分、人は人(課題の分離)」「自分の勝手(自分の課題)」「他人の勝手(他人の課題)」と呼ぶことにしています。

「誰の課題かを見分けるには、それを最終的に引き受けるのは誰か?で考えよう‥」なんて脳内を巡らせるよりも「これは相手の勝手だ!」とか「自分の勝手さ!」とやった方がわたしには早いです。

また、課題の分離に関連して「アドラーは承認欲求を明確に否定する」も少し言葉が難しいのです。

「承認欲求の否定」と言うと、承認欲求を持ってはいけないようですが、けしてそんなことはありません。自分の感情に蓋をしてはいけません。それこそ、感情はありのまま受け入れなければなりません。

そして、その承認が叶わないなら、それは他者の勝手だとこれも受け入れる必要があるだけです。

つまり、アドラーが言いたいのは、「要求」の否定のはずです。そこで、わたしはこれも独自に「承認要求の否定」と呼んでいます。

課題の分離が難しく感じる6つのケース

次に課題の分離が難しく感じるケースを少し具体的に見ていきます。

自分の課題に介入されたらどうするか?

自分は課題の分離を心掛けていたにしても、自分の側にいる人が、無神経にこちらの課題に土足で踏み込んできた場合はどうしたらいいのか?

そんな風に思うことがあるかもしれません。

相手の課題に土足で踏み込むのが良くないのは、相手を支配する行為だからでした。つまり、相手に支配されなければいいわけです。

例えば、親に勉強することを強いられても、自分がやりたくなければ、やりたくないことを冷静に説明して、やらなければいいだけです。

誰かに何かを期待されたとしても、強行にマウントされたとしても、熱くなられたり、泣き落としされそうになったとしても、同じことです。わたしの課題には、わたしの自尊心を優先させます。

困っている人や困らせている人に介入してはいけないか?

例えば、困っている人が居る場合。もしくは、人を困らせている人が居る場合。これを見て見ぬふりをするのが課題の分離だろうか?

そんな風に思うことがあるかもしれません。

アドラー心理学では、他者貢献こそが幸福です。困っている人がいたら、できる援助をすることは自分の課題に反することでは全くありません。

ただし、馬を水辺に連れていくことはできますが、水を飲ませることはできませんが。

他者の課題が自分にも影響が及ぶ場合も介入は禁止か?

第一義的には、完全なる他者の課題であっても、ゆくゆくそれが自分にも影響が及ぶという場合があります。

例えば、勉強をするのは子どもの課題であっても、国立大学に入学してもらえないと親にはお金の負担がかかります。

この場合、もちろん、勉強は子どもの課題、お金は親の課題と切り分けて、あらかじめ子供に、国立の学費しか払えないこと決めておくという方法もあると思います。

また、子どもが国立大学を志望するのであるならば、親子共通の課題として親は子どもを援助する、子どもは親のためにも頑張るという考え方もあると思います。

課題の分離とは別に、仕事や愛の関係においては、共通の課題を持つという考え方もアドラー心理学にはあります。

承認欲求が無くせるなんて全く思えない!

他者が自分を承認するかどうかは確かに100%他者の課題。自分にはどうすることもできないというのは全くの正論です。

しかし、人間の承認欲求が消せますか?そんな机上の空論を説くアドラーなんて、ただのお説教おじさんだ!という意見を聞いたことがあります。なんだか異常にウケました。

これについては前述した通りですが、アドラーは「承認の要求」を否定しているだけだと私は思います。

きっと、アドラーだって褒められたらありがとうといったと思います。また、「幸せになる勇気」の中で、哲人が青年をかけがえのない友人であり、無条件の信頼を寄せていると話す件で、こう言っていました。

「わたしはわたしを信じてほしいと思っている。わたしを信じアドラーの言葉に耳を傾けてほしいと思っている。ゆえにわたしは、先にあなたを信じるのです。」

哲人にも、承認欲求はあるようですよね。ただ、要求はせず、信頼をするようです。

管理監督者の常識的な責任範囲から逸脱しないか?

親が子供に対して、あるいは上司が部下に対しては、監督責任がある、という考え方があります。

失策や不法行為などのあった人を指導監督する立場にある人が負うべき責任、これは監督者の課題です。

この責任を援助と言う形で果たすべきだとアドラーは言っています。決して、自由放任を説いている訳でもありません。

他者をグイグイ引っ張るリーダーシップも必要でしょ?

時に他者の課題へ踏み込んでも、グイグイ引っ張り人を動かすことも必要なこともあるのではないか?という意見も当然あると思います。

アドラー心理学は、勇気をくじいた人に勇気を与えるメソッドです。

今、勇気りんりんでイケイケで何も問題を感じていない人には必要のないものだと思います。もし、何かに悩んだり、不安を感じた時に、触れてみるといいものだと思います。

まとめ

課題の分離は、単に悩まないテクニックでなく、人を信じる生き方であり、受領力を鍛える習慣であり、アドラー心理学の入り口なのだと私は感じます。

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