愛は与えるものというけれど、どうすりゃいいのか?

共同体感覚

「愛は与えるもの」だと言うけれど、それは一体どういう根拠で言っているのか?「求める愛」ではダメなのか??

この記事では、主にアドラー心理学「幸せになる勇気」を使って、この問いにバチっと答え、愛されるより、愛することを再選択する方法をまとめます。

愛を求める仕組み

まずは、私たちが愛を求めるのはどうしてなのか?この仕組みについてです。

生まれて間もない子どもたちは、自分の力で生きていくことができません。他者の、原理的には母親の、絶え間ない献身があってようやく一人の子どもは生き延びます。

私たちは美しい無償の愛を与えられていました。

たいへんいありがたいことである一方で、親に依存しながら生きるしかない事実によって、私たちはこどもの頃から、愛されるための性格を作り込んでいます。

いい子になるのも、悪い子になるのも、おとなしい子になるのも、にぎやかな子になるのも、私たちが、それぞれの環境で他者からの愛を求め、生き延びるための生存戦略でした。

いかにすれば、他者からの注目を集め、世界の中心に立てるかを綿密に模索していた私たちは、どこまでも自己中心的な性格を、幼少期からのものとして、心の底に抱えています。

これが、私たちが、自分の幼少期からの環境に応じて作り込んできた愛を求めるメカニズムです。

求める愛の問題点

幼少期から自分自身で培ってきた自分の性格ですが、ここには秘められた課題は、たゆまぬ自己中心性です。

人間の性格は、およそ10歳前後でできあがると言われています。このため、多くの人が、どうしても譲れない心情として、愛されたい、いかにすれば愛されるか、という価値を、心の深いところで根ざしています。

これが、対人関係の中のどこかで、特に恋愛ともなるとその中で、ぐんとプライオリティを上げて、貰う愛を志向してしまいます。

それと同時に、この自己中心的な欲求は、対人関係や恋愛中の自分の心に、だんだんと問題を生じさせることになります。

求める愛がもたらす不具合

心が自立できない

愛を求めるのは、子供時代に不可欠だった生存戦略をそのまま使っているためです。本来ならば、成長してなんでも自分でできるようになれば、使えないものですし、特に要らないものです。能力や身体が成長をして、いよいよこの自己中心性を手放す心の成長を、自立と言います。

しかし、愛を求める人は、この自立を避けています。

10歳で自立する人もいれば、60歳で自立しない人もいます。これは、当人の選択によるものです。

この自立を避ける生き方は、子供のように愛を求める性質であり、人間関係に依存をすることを選択していることになります。

この依存が発展させてしまい、生活に支障をきたすようになることを依存症といい、病んでしまうこともあります。

心を貧しくする

自己中心性から解放されず、与えてもらうことばかりを求めるのは、心が困窮しているためです。そして、その多くは自己否定によるものです。

この心の困窮を野放しにして、愛を求めるものにしたままにすれば、心の困窮からも、解放されないままです。

ありのままの自分を肯定的に受け入れて、心を豊に持ちたいものです。

自分しか見ていない

愛を求めてだけいる人は、一見、相手のことばかり気にかけているようにも思えます。

しかし、それはただ、与えてもらうことばかりを考えているだけで、結局は自分しか見ていません。

ですから、もちろん、対人関係と自分の心にトラブルが生じることは当然のことです。

どんな独裁者でも愛は強要できない

求める愛を志向した場合、自分の心の平穏が崩れる多くのケースは、与えられることを待っていられない感情が働く時です。

愛されないことで、心が乾ききってしまい、憤慨したり、落ち込んだり、泣きわめいたりと、相手に愛を強要しにかかります。

しかし、冷静に考えれば、どんな独裁者であっても、愛は強要できないことは容易に分かります。愛を完全いコントロールし、他者に強要できるのは、生まれたての赤ん坊だけです。

愛を与えるものに再選択する3ステップ

step1:課題の分離

他者の課題に踏み込まない。それが課題の分離です。あらゆる人間関係のトラブルは、課題の分離がされていないことよって起きています。

自分が他者に愛されるかどうかは正に他者の課題です。これは正に人間関係のトラブルで、トラブルを起こしている犯人は、自分自身であるのに、何故か愛という名のもとで、正当化してしまいがちです。

なぜ、あの人は自分を愛してくれないのか?こんなに傷ついているのに…

そんな被害者意識なのでしょうか。

他者の課題に踏み込まない、自己中心性を強要しない、大人になって自立する。そんなことが大切です。

step2:自己承認

乾いた承認欲求を潤すには、愛を能動的なものにしていく必要があります。

課題の分離で考えれば、これは自分の課題です。だから自分で自身を承認するべきです。

基本は、自己受容がこれが叶う方法です。ありのままの自分を肯定的に受け入れることをする訳です。

一方、インスタントにコツコツと日常の中で、自己承認を行う方法もあります。アドラー心理学でいう「正の注目」はこれにあたります。

人の行動は95%は正しい行動だと言われます。朝起きて、顔を洗って、服を着て、会社へいって、仕事してと、それらは全部正しい行動です。

この正しい行動は、当たり前と流してしまいがちです。せっかく95%も正しく生きているにも関わらずです。

これに、しっかり注目していきましょうというのがここで言う「正の注目」です。この技法は、簡単にかなり自己肯定感を高めてくれます。

関連記事:「超シンプルな承認欲求のなくし方」

step3:与えるからこそ、与えられる

たとえば、相手の好意をなんとなく察知した瞬間、その人のことが気になる、やがて好きになっていく…こういうことはよくありますよね?

これが勘違いかどうかは置いておいて、なんとなく「愛される保証」が確保できたと思うから、これを担保に、恐る恐る、しかし、わくわくしながら、行動していくわけです。

人はそれだけ、臆病だし、傷つきたくないのですね。告白してフラれても、実はなんてことは無いすり傷くらいなのに。命を取られのるか、くらいに大袈裟です。そして、これは多くの人がそうなのです。

だからです。

こちらから先にモーションをかければ、臆病な相手は、この好意をキャッチして、徐々に心を動かしてくれるかも知れません。

自分から動けば、選り取り見取りです。

ダメでもともと失うものなどなにもないわけです。そして、例え、傷ついても絶対致命傷なんかにはなりません。絶対です。

結婚など、長らく続く関係でもその通りです。様々な行き違いやすれ違いがありますが、いつも自分から動いていれば、それが、一番、自分の心は安定的で、豊かで、平穏です。

これ、与える愛のゴールです。

まとめ

求める愛は幼稚なだけに、問題が起こります。
自立して、大人になりましょう。

「愛は与えるものというけれど、どうすりゃいいのか?」

※参考書籍

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