承認欲求の何がいけないのか?

承認欲求

承認欲求は誰もが心に抱えています。
SNSでいいね!を欲しがる人、自慢話をする人はもちろん、威張る人、人の悪口ばかり言う人も、みんな承認欲求に支配されています。

もちろん、

私はそれら全てが当てはまります!汗

承認欲求は、モチベーションを高めたり、人を道徳的に導いたりと、悪い事ばかりではありません。

でも、度を超すと、いつも人の評価ばかりを気にしてしまい、息苦しくなってしまうことが良くあります。

たった一度の人生です。他人の期待に応えるばかりでなく、自分のために自分の人生を生きたいものです。

では、どうしたら承認欲求と上手く付き合えるのか?その方法を考えます。

このブログは、アドラーを中心にした心理学の知見から、自由な生き方、心を解放する考え方の答えを探して更新しています。是非、一緒に考えて貰えたら嬉しいです。

さて、それでは本題です。

まずは、わたしがとある女子と交わした対話を見てください。

承認欲求の何がいけないのか?

質問

承認欲求の何がいけないのか教えてください。

回答

自己中ではダメよ?ということです。

承認欲求に身を任せると、人の目を気にするワケだから人のことを考えているように思われるかもしれませんが、実はそれは真逆です。人にどう見られるかばかりを気にしているのは、結局、自分のことしか考えていないことで、それは気持ち悪いですよね、という事です。

そこで、承認欲求を少なくするには、貢献が処方箋になります。他人の顔色で生きるのではなく、自分の意志で主体的に他者に貢献する方が、自分らしく自由でいられて、結果的に、人から好かれもします。

回答に対して

気持ち悪いと思われるのはさすがに嫌だな。処方箋もらってきます。

そもそも承認欲求とは?

とてもノリのいい可愛らしい人との対話でした。承認欲求が何やら邪魔な気がするけれど、何が悪いのだろう‥といったニュアンスかな。と思って、こんな回答をしてみました。

さて、承認欲求ですが、これは、自分を価値ある存在として認めてもらいたい、という欲求のことです。

SNSでいいね!がたくさんついたり、自分が自慢できる事柄を人に感心して聞いてもらえると、自分が価値ある存在だと認められたいという気持ちは満たされます。

それと、威張ってばかりいる人、人の悪口ばかり言う人も、実は承認欲求に縛られています。

他人を低く見ることで、相対的に自分の価値を上げようとしているワケです。自分の価値を認めてもらうのは難しいことなので、相手の価値を下げて、結果的に自分の価値を高めたいという意識の表れなんですね。

いずれも典型的な承認欲求からくる行動パターンです。

賞罰教育の影響

教育や子育ての現場では、承認することや褒めることを素晴らしいこととする文化が未だに根付いています。

褒めて伸ばそう!思想です。

適切な行動をとれば褒められて、不適切な行動をとれば罰せられる。いわゆるアメとムチ的な賞罰教育です。承認欲求を利用して、賞罰を上手く用いれば人をコントロールするのは簡単です。

動物の調教と似てますよね。こういった賞罰教育の特性を適切に利用すれば、望ましい行動を取らせることができますから、いわゆる、いい子を育てあげるのは、とても楽です。

あなたも、家庭や学校で褒められた経験があると思います。誰でも褒められるのは嬉しいし、罰せられるのは辛いです。だから、認められることを求め、叱られることは止めておこう、そう思って私たちは生きてきました。

しかしです。

これを否定するのがアドラーです。

承認欲求の問題点

承認ばかりを求めると、他者の期待を満たすために生きることになる。その結果、自分を捨てて生きることになってしまいます。

褒められなければいられない人になっては辛いでしょ?とアドラーはいうワケです。

でも、幼いころから、賞罰のシステムの中で生きていると、他人の顔色や評価を気にすることが、当たり前になっています。

真面目な人、いわゆるいい子で育ってきた多くの人が苦しんでいるのは正にここです。人の評価ばかりを求めてしまう、自分では、もうどうしようもなくなっています。

承認欲求との付き合い方

承認欲求との付き合い方の作戦のひとつは

「自己中から自己満へ切り替える。」です。

少し詳しく見ていきます。

1.自己中心的であることを自覚する

承認欲求に囚われている人は実は、他者のことを考えている様で、実は、自分のことしか考えていません。行動の出発点は常に自分、問題意識も常に自分。人を自分のことを認めてくれる道具のように捉えています。

酷い言い方かもしれませんが、事実です。

だから、まずは、これが自己中心的なことであること一旦自覚すると少し気持ちが切り変わりやすくなります。

2.他者への貢献を軸にする

認められたい、褒められたいという思いを、他者に貢献する、誰かの役に立つ、という主観に切り替えます。

愛されるより、愛したい。みたいなことよく言われますが、あれと同じです。

愛されるかどうかは、最終的には自分ではどうすることもできませんが、愛することなら、はじめから自分で決めて自分で行動出来ます。

すぐ簡単に切り替えられるってわけじゃないと思います。わたしたちは、かなり賞罰教育に飼いならされていますから。

おしまいに

完璧主義に囚われずに、少しずつという気持ちで、自己中心性と、他者の承認から、自分を解放していくのが賢いやり方です。

ちなみに、仏教では、まといついて心をかき乱す不健全な欲求のことを煩悩というそうです。

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