フロイトの心理学を簡潔に

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1800年代後半のヨーロッパでは”憑依”が流行っていたそうです。サタンやデーモンが人間にとりつくというオカルト現象のアレです。

そんな中、人間には「自分の知らない自分自身」があるのではないか?無意識というのがどうもある。人間はそれを抑圧しているのはないか?

という風に、心霊現象を否定するところから、それは、心理現象だとして研究を進める動きがありました。

この研究の中心人物がフロイトです。

この記事では、フロイトの心理学について、彼の人物像、心理学、アドラーとの関係について、ざっくりまとめていきます。

フロイト人物像

ジクムントフロイト(1856~1939)は、オーストリアの神経病学者、精神分析学の創始者。ユダヤ人織物商人の息子として生まれ、ウィーン大学医学部を卒業。彼が最も興味を抱いたのは神経疾患です。

精悍なシュナウザー犬のような容姿がダンディ。

フロイト心理学

性欲理論

彼は、神経症患者の幼児体験、性倒錯の存在ならびに自己分析の資料を基に、全ての神経症はセックスにあるとする「性欲理論」を唱えました。

性衝動の存在、母親への近親相姦愛、性的発達の中に含まれるサディズム的要素、治療者によせる患者の増悪的愛情(感情転移)、死の本能、などの体系化に尽くしました。

人間の行動の根底には、抑圧された性的欲動があるという唱えは、当時の人間観に大きな衝撃を与えました。

ソクラテス、プラトン、アリストテレスが、基本人間は理性的な生き物であるという前提で哲学が発展していきました。まして、キリスト教で性の取扱いはタブー視されていますから、歴史上、こんなことを言い出す人は初めてだったわけです。

人の心の深層には広大な無意識の領域があって、そこに性的照応など本能的な欲望が抑圧されて蓄積され、行動のエネルギー源になっているという。

ひたすら、欲望を満足させて快楽を得ようとする無意識と、両親や権威などによる教育から形成される超自我(良心)との間で、両者の要求を調整し、現実に対応した行動をとらせようとするのが自我である、というわけです。

超自我(良心)

自我(調整役)

無意識(欲望:性的衝動)

そして、超自我によって抑圧された欲望はコンプレックスとなり、良くすると芸術や文化を創造される意欲へと転換されるエネルギーのなります。その一方で、自我が衰弱すると過剰な抑圧や欲望を制御できず、神経症を発症させるのだとしました。

現代の高度管理社会は、非合理的な欲望を異常視し、欲求不満を解消する方法も抑圧するから、神経症を生じさせやすくなっていると言えます。

自己破壊衝動

また、のちに、彼は、自己破壊衝動をも人間の根本的な衝動とみなし、人類が最後の1人まで殺し合う力を持ったことが、現代人の焦燥や不安の大きな理由になっていると考えました。

これは、精神科医として第一次世界大戦を経験したの影響だとも言われています。

思えば、小さな子供って、積み木のようなオモチャで何かを作り上げたかと思うと、それを突然「バーーーン!」と、ぶっ壊して、ケタケタケタケターッと喜んでいますね。自己破壊衝動とはそういうことかもしれません。

いずれにしても、フロイトは、性衝動が創造する文化の発展のエネルギーで、死の本能(自己破壊欲求)をいかにおさえるか、それが人類の課題である、としました。

クリムトとの関係

同じ時代に生きたフロイトと画家のクリムトは、交流がありました。

そして、フロイトが人間の根源的な欲求として「性」と「死」を上げた時、クリムトとその弟子のエゴンシーレは、人間の官能と不安を絵画に描き出しました。

フロイトが、超自我によって抑圧された欲望はコンプレックスとなり、芸術や文化を創造される意欲へと転換されるエネルギーのなると言ったのは、このことでしょうか。

グスタフ・クリムト(1862−1918)の代表作『ユディトⅠ』

ユディトは、旧約聖書外典『ユディト記』に登場する美しい未亡人。故郷の危機に際し、彼女は女を武器に単身で敵であるアッシリア軍の本陣に乗り込み、将軍ホロフェルネスの首を斬り落とします。

そんな彼女は、ルネサンス以来、多くの画家たちによって取り上げてられてきましたが、多くの場合、殺害する場面か、あるいは生首と剣を携え、凛とした佇まいを見せる姿で描かれています。

しかし、クリムトが描いたのは画面いっぱいのユディトの上半身。胸をはだけ、黒い目は半ば閉じ、頬は興奮でほんのりと赤く染まっています。

恍惚とした表情を浮かべながら、彼女は小脇に抱えた男の生首をしなやかな指で愛撫している。首は、すでに土気色に変じ、眼も静かに閉じられている。その暗さ、死の静かさが、眩い金に包まれ、まるでひとりの男を破滅に追いやった自身の「女の力」を誇示しているかのようなユディトを、より妖しく生き生きと輝かせています。

アドラーとの関係

20世紀最大の発見ともいえるフロイトによる無意識の理論。

ただ、全てを性で解明しようとするのは、あんまり無理があると、その時、共同研究者だったユングやアドラーは離反して、独自の主張を始めました。

深層心理学、つまり、心の中のエネルギーの動きの研究に協力しあった無意識研究の3兄弟といっていい、心理学の3台巨頭、フロイト、アドラー、そして、ユング。

実際の彼らの交流の様子の詳しくは、アンリ・エレンベルガー著「無意識の発見」下巻に見られます。

アドラーがフロイトの元が離れた理由は、前述の性欲理論と、もうひとつ。意識と無意識の関わり合い方に対する決定的な相違がありました。

フロイトは、意識と無意識は常に対立していると考え、都合の悪いものを無意識の中に押し込んでいるものとしました。

一方、アドラーの考えは、真逆。意識と無意識は同じ方向を向いている。相反して思えるのは、それを認知する方法論を学んでいないだけだと、考えました。根本は、この違いです。

ダメで不謹慎な自分自身を抱えながら、そこを理性で何とかしようとするんだというフロイトの学説は、今の私たちにとって極めてシンプル。そして、少しだけ退廃的な背徳感も漂います。

一方のアドラーの学説は、全て自分自身が選んでいること。ダメで不謹慎な自分を選んでいるだけ。イヤなら、理性的な自分を選べばいい。ただそれだけのことだと、非常に理性的。かつ、建設的。そして、やや、スパルタです。

おしまいに

性と死、つまり、死と再生を人間の根源的な衝動だとする考えは、ある意味、シンプルだと私は思います。

クリムトのような芸術作品を創造する力も見てもそうですが、よく「英雄色を好む」と言うように、パワフルに活躍する人々を見ても、そこには人間の根源的で莫大なエネルギーがあるように思えます。

それが全てか?自我と相反しているか?どうかは別として、人間もただの生物です。この世に生まれて生殖して死ぬというのが、いちばんシンプルな生きるという営みであることに違いありません。

しかしその上で、アドラーは、心の病気に苦しむ患者さんを目の前に「その分析がいったい何になるんだい?」と言ったんでしょうね。フロイトも、相当なタブーを犯してRockな学説をシャウトしたんですけどね。あゝ、みんななんて偉い人達です、尊敬。

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