僕は幸せになるためアドラー心理学に反論する 要約

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アドラー心理学の教えを取りまとめた、「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」は、大ヒットを遂げアドラー心理学への興味関心を拡げました。

しかし、この教えが、常識へのアンチテーゼでという側面を持つこと、また、心理学と言いながら、反証可能性を持つような科学ではないことから、異論・反論も湧き上がりました。

濱本裕之さん著作の「僕は幸せになるためアドラー心理学に反論する」は、アドラー心理学「幸せになる勇気」(岸見一郎さん 古賀史健さん 共著)に反論することで、人間をより深く追求することが目的とするとしています。

そして、アドラー心理学へ一定の理解を示しながら、人生の捉え方に、また、新たなニュアンスを提示します。

数あるアドラー心理学への反論は、その性格上、情緒的な論調が多く、実態がつかみにくいものです。ところが、こちらの主張は、一冊の骨っぽい書籍になっています。

しかも、アドラー心理学の賛成派さんと反対派さんの議論形式で構成されていくという、一方通行を押し通すような文脈を許さない表現になっています。内容も、たいへん有意義な議論が展開されていきます。

尚、表紙がやたらとカッコイイ本です。

さて、このエントリーでは、この本を要約してご紹介をします。

アドラー心理学の目的論への反論

本書はアドラー心理学を語るうえで欠かせない目的論の概念から議論がスタートします。

人間は、過去の「原因」に突き動かされて存在ではなく、現在の「目的」に沿って生きている。自分の人生を決定するのは、「いま、ここ」を生きるあなたなのだ。

幸せになる勇気より

この本では、目的論の定義として、ここを引用しています。

われわれは自分の経験によるショックーいわゆるトラウマーに苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。

嫌われる勇気より

この記事では、同じく目的論を示したこの文章として、こちらも補足的に押えておきます。

さて、本題です。

人は、例えば、今の自分にヤル気がないことを、過去のトラウマを原因にすることがあります。アドラー心理学では、この今の事象に対して過去に原因を求めることを否定します。

今ヤル気が出ないのは、過去の原因ではなく、今の目的がそうさせています。つまり、実はそれは、今の自分が「ラクをしたい」という目的を持っているため、過去の経験に自分自身がネガティブな意味付けをしてトラウマとしているという考え方をします。

変わりたいと願い、原因論を否定して、目的論に立ち、「今ここを真剣に生きよう」という目的さえ持てば、その人のヤル気のない状況はすぐに変えられる、という論理であり、悩みを持つ人への勇気づけであるわけです。

そして、次に挙げるのが、この本の目的論への反論です。

過去の原因論まで否定されるべきではない

過去のことについては、目的論で考えても原因論で考えてもどちらでもいいはずです。

例え、過去のことを今の原因として捉えたとしても、これからのことにさえ、目的を持てば、人は変われることもあります。

もちろん、過去を目的論で語るこもとできますが、深層心理にある目的については、それが正しいことを誰も証明ができません。

だから、使う人が使える方を使えばいいのであって、証明ができないまま原因論が否定されるべきでないはずです。

アドラー心理学の課題の分離への反論

他者の課題に踏み込まない。それがアドラー心理学の課題の分離です。あらゆる人間関係のトラブルは、この課題の分離がされていないことよって起きています。それが誰の課題かを見分ける方法は、それを最終的に引き受けるのは誰か?で考えます。

以下、課題の分離への反論です。

解決のつかない水掛け論

課題の分離を考えない人に、課題の分離を強要はできません。自分の課題に介入するかどうかは相手の課題ですから、自分の課題に踏み込まれること自体は受けいれざるを得ません。

もちろん、その後に相手の介入を拒否は主張できるものの、更なる介入は止められません。

課題の分離は、そんな水掛け論になりかねません。

もっと強く自由に生きられる

自分の目標や夢を叶えるためには、他者との衝突を覚悟で他者の課題に介入するのが必要なこともあります。

これに制限を持たなければならない課題の分離を主張するアドラー心理学は、臆病であり、不自由です。

アドラーの言う幸せへの反論

アドラー心理学では幸せとは貢献感だとされています。アドラーは、「私は共同体にとって有益である」「わたしは誰かの役に立っている」という思いが、自分に価値があると実感さえてくれるのだと言いました。

他者貢献は目に見えないもので構いません。誰かの役に立っているという主観的な感覚があればいいのです。これが、貢献感であり、幸福とは、ただ貢献感のことです。

幸せへの反論には、作者の哲学と洞察力が光ります。

幸せへのカギは、強烈な自己肯定感

貢献感が幸せであるということを否定はしません。しかし、貢献感でしか幸せを感じられないというのは違います。

人それぞれの幸せがあります。つまり、今の自分に納得感があればいい、そのため自己肯定感を強く持てていることが、幸せへのカギなのだと思います。

幸せは目的じゃなく目標かもしれない

著者の考える「今の自分に対する納得感」も、アドラーの言う「貢献感」でも、どちらも幸せとは感情だという定義です。

しかし、多くの人は幸せを他の対象と結びつけます。例えば、結婚や出世や年収です。これは目的でなく目標です。この目標は、すぐ叶うものではないため、それが幸せであるというご褒美を自分に見せているのだと思うと本書は語ります。

そうして、幸せを対象に求め、手に入れたら、すぐまた次の幸せを求めるということを繰り返すのです。つまり、幸せとは目標を叶えるためのエネルギーとして使用するものというのが、人々の生き方を考察した結論と言えるのです。

承認欲求の否定への反論

アドラー心理学では承認欲求を明確に否定します。承認は、人間の根源的な欲求である「自分はここにいていい」という感覚、所属感に繋がっていると考えられます。

承認には、他者からの承認と自分自身の承認の2種類があり、他者からの承認を求める承認欲求は、依存につながります。そして、自分自身に求める承認である自己受容は、自立につながります。

また、承認欲求は、他者が自分を承認するかどうかであり、他者の課題であり、これに振り回されることは不自由です。一方の自己受容は、自分自身への承認であり、自分の課題であって不自由さは無い自由な状態と言えます。

そして、承認欲求に関する反論です。

承認欲求は決して自立を妨げない

アドラーは、他者からの承認は他者への依存を招くためと否定をしています。しかし、それも、アドラー流に目的論で考えれば、承認欲求を持った結果が、依存を招いてしまう訳でなく、今、依存したいという目的を持っているだけのはずです。

自立するという目的を持ちさえすれば、他者への依存を抗えないはずはありません。

恒久的な自由から恒久的な不自由が生まれる

アドラー心理学では、自由というテーマを大切にしています。この自由の定義を、やりたい時にやりたいことをやれる状態、心と体が一致している状態だとします。

その時、アドラー心理学はとても不自由です。承認を求めてはならないという制約があるからです。

人間が生きている意味は特にないので、一人ひとりの人間が自分の生きている意味を決めていいのです。結婚したい、子どもが3人ほしい、ガンを根絶する薬をつくりたい等何でもです。

人が求めているのは、自由でも、幸せになることでもなく、総じて論じることは不可能です。

アドラー心理学の教育への反論

アドラー心理学において教育の目的ちは自立です。そして、教育者の仕事は生徒を自立に向けた援助をすこととです。

学級における教師を生徒の関係は「賞罰」と「尊敬」の2種類です。

賞罰教育では生徒が褒められること叱られないことを目的に行動しようとします。そして、それが教師への依存を産むため、アドラー心理学は賞罰教育を明確に否定しています。

一方、教師と生徒との関係が尊敬であれば、それは自立を援助することになります。尊敬とは、他者をありのまま認める態度です。

生徒は教師の尊敬を通じて、自分自身のありのままの価値を認められるようになります。自立を援助することになります。

更に範囲を広げて流れを説明すると次のようになります。

  1. 人間は創造力を働かせることで、他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じるように努めることができる。その態度を共感と呼び、それは他者の関心に関心を寄せることである。
  2. 他者の関心に関心を寄せることで、相手は対等な立場として尊敬されることを実感する。
  3. 教育の目標とは生徒の自立なので、教育者は生徒が自立できるように援助する。そのためには対人関係の土台である尊敬が必要だ。

以下、教育に関する反論は具体的で現実論です。

理想論過ぎてツッコミどころあり過ぎる

アドラー心理学において教育の目標が自立です。そういう目的を持ってもいいでのすが、実際の教育はそうはなっていないことは明確です。

実際の教育は自立を目標にしていないため、実行可能な具体論には落とせません。

学生にとって興味の無い授業を押し通し、尊敬とは全く逆をやりながら、一方で、学生の関心事に関心を寄せ尊敬し、自立を援助することなどできません。

相手に関心を、なんて不自由で不気味

対人関係の土台を築くため、自分にとってくだらない相手の関心事に関心を寄せることは、他人に振り回される人生なのではないでしょうか。
また、相手も無理に関心を持とうとしていることに気づき、それで自分が尊敬されているとは微塵も思わないのではないでしょうか。

ひとりで民主主義はつくれない

40人いる学級の多数派がアドラー心理学の実践者なら、民主主義的な教室になるかもしれませんが、教師一人でアドラー心理学を実践して学級内に伝染していくはずありません。

それが教師ひとりでできると思うのは傲慢です。

民主主義を掲げる人から不自由になる

「褒めてはいけない。叱ってもいけない。生徒の関心事に関心を寄せよ。」という制約があることが、まず、その教師を尊敬していることになりません。このため、学級の民主主義を掲げる人から不自由になるという不思議なことが起こります。

おしまいに

自分はわがままなまま、世の中の方が変わってくれないか?

本書では、この後、人生のタスクについての議論が展開されます。独自の解釈を加えながらも見事にアドラー心理学を消化していく様子は必見です。

この本では独自の哲学が語られています。それは、はじめ、アドラーよりもっと自由で、もっとアンチテーゼな哲学のように思えます。しかし、本書を読み進めていくうちに、この主張は、むしろ一般的な意見なのかもしれないと感じはじめます。

思えば、人々には、幸せについて、あるいは、自立や自由についての本質や構造になど、興味はありません。例えば「好きな物は好きなだけ食べたい、それで、痩せたい。」のように、ただただ喜びの実感を追ってはくじかれ、そしてまた追うものかもしれません。上手くいかなければ平気で悩めばいいのです。そうしていると「脂肪の吸収を抑え、糖の吸収をおだやかにする」とかいったソリューションが登場して、世の中の方が変わってくれる。そんな気もしてきました。

そして、このアドラー心理学が一躍脚光を浴びたのも、「こんなに複雑化する世の中で、幸せになるには、どこをどう変えたらいいのよ?」という悩みに対するクリアなソリューションだったに違いありません。

勇気要りますか?

最後に、アドラーへの反論でいつも思う事を挙げておきたいと思います。

アドラー心理学が、いちばん強く、何度も何度も連呼し続けているメッセージがあります。たぶんそれは、アドラー心理学の存在理由であり、目的であり、期待する効果です。

これについて、あまり語られないことをいつも不思議に思います。特に、アドラー心理学への批判や反論では、ほとんど語られません。この視点の無い評価は、高くても低くても、その意味は限りなくゼロに近いと言えます。アドラー心理学が目的に叶うかどうかが評価されていないからです。

アドラー心理学は「勇気づけ」の心理学です。

この「ご使用上の注意」は守られているでしょうか。勇気づけのために使われなければ本来の意味はありませんし、今、勇気りんりんの人が使っても、本来の効果効能はないはずです。

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