この記事は、哲学者の岸見一郎さんと、編集者の古賀史健さんの共著、世界で400万部を突破したと言われる「嫌われる勇気」を要約して、アドラー心理学の一連の勇気づけをまとめます。
フロイト、ユングと並び「心理学の三大巨頭」と称されるアルフレット・アドラー。彼の思想(アドラー心理学|個人心理学)を青年と哲人の対話形式で分かりやすく伝えるのが「嫌われる勇気」です。
世界は矛盾に満ちた混沌としか映らず、幸福などありえないと思っている青年へ哲人が、3つのメッセージを解いていきます。
1.人は変われる
2.世界はシンプル
3.誰もが幸福になれる
それぞれテーマに沿って、青年の悩み非常に具体的に答えていくという内容です。
そのカギになるのが「嫌われる勇気」です。
「嫌われる勇気」と聞くと「臆することなく自分の信念は貫け!」というマッチョなメッセージに聞こえがちです。しかし、この本の言う「嫌われる勇気」は少しだけ違っています。「対人関係で傷つきたくない恐れが、あなたの幸せを阻んでいるよ?」という心理学的でなかなかにセンシティブな指摘を含んでいます。
無意識に隠し持っていた自分の弱さを暴かれるような、ちょっとドキッとしながらも、タフでクールで、そしてヒューマンタッチな勇気づけの数々に、次第に視界良好になっていく気がする一冊です。
では、早速本編の要約です。
人は変われる
目的論
なぜ「人は変われる」なのか?それは、人は過去にも感情にも支配なんてされない、今ここに居るあなたの目的しだいだという、これが、この本の最初の勇気づけです。
例えば、引きこもりについて。
その人の引きこもりは、過去のいじめ等のトラウマが原因になっている、というケースがあるとします。しかし、いじめを受けた人全員が引きこもるわけではありません。私たちの現在や未来は、既に過去によって決定済みなわけでもありません。
実はわれわれは、トラウマに苦しんでいるのではありません。自分の経験にではなく、経験に自分が与えた後ろ向きな意味に苦しんでいるのです。
後ろ向きになる理由、引きこもる目的は、外出をしないこと。親に心配し注目してもらうことなのです。
哲人は、怒りについても同様に語ります。
ある突発的な出来事に、つい怒鳴り散らしてしまった、そんな時。もしも、偶然、刃物を持っていて、それで相手を指してしまった場合、それをどうすることもできない不可抗力だと言えるでしょうか?いいえ、もちろん、決してそうはなりません。
結局のところ、怒りは調整自在。自分の主張を簡単に押し通す目的で適当に調整された手段でしかないのです。
結局、人は過去にも感情にも支配などされません。今ここに目的があるだけ。という、この考え方を「目的論」と呼びます。
これは、「心に背負った傷が、現在の不幸を引き起こす」と言ったフロイト的な原因論と対比されます。原因をつきとめるだけ、慰めるだけでは一歩も前には進めません。現状にとどまらないように、背中を押すのが、アドラー心理学です。
ライフスタイル
アドラー心理学では性格、気質、世界観、人生観まで含めて「ライフスタイル」と呼びます。
そして、このライフスタイルは、自ら選んだものです。もしも、今あなたが不幸だとしてもです。それは、あなたが自分の「ためになる」と言う意味で選んだものです。
誰一人として悪を欲する人はいない。
ソクラテスのパラドクス
根っからの悪人という人はいません。例えば、金銭絡みの怨恨による殺人のような酷い行いにも、当人には当人のしかるべき事情があります。自分の「ためになる」ものとして自身が選んだものです。
引きこもりのような問題行動のみならず、性格、気質、世界観、人生観というものも、抗えずただただ与えられたものでは決してありません。人が変われる理由は、ここにもあるわけです。
世界はシンプル
すべての悩みは対人関係
人間が生きるのには、他者が存在することが前提になって、そこに悩みが生まれます。もしも、宇宙のなかにひとりで生きることができれば、悩みを失くせますが、それは不可能です。
対人関係で傷つかない人生など基本的にはあり得ません。そして、すべての悩みは対人関係である。そうアドラーは言い切りました。
劣等感とは
劣等感は、時に「言い訳」になります。また、時に自分が優れていることを、ことさらに誇示する「自慢」になることもあります。更には、自分が不幸であることをことさら誇示して人の上に立とうとする「不幸自慢」になります。
いずれも、自分に欠けている部分を努力で補うべきところを、その勇気がくじかれているのが心理です。
そもそも劣等感は、単なる主観的解釈です。自分がどのように意味付しているのかという側面もあります。
例えば、背が低い男の劣等感は、対人関係のなかで単に他者との比較だけで背が低いという劣等性を意味付けしているに過ぎません。
この背が低いという事実を、他者には無い「人をリラックスさせる才能がある」とか意味付けすることもできるわけです。そうすることによって、そもそもそこには客観的な劣等生など無かったとも言えます。
競争の弊害
人は生まれながらの無力の状態から脱しようと、優位性を追求します。しかし、これは他者よりも上をめざす競争であってはいけません。健全な劣等感とは、他者との比較でなく理想の自分との比較から生まれます。
前に進もうとすることに価値があるのであって、権力争いに足を踏み入れてしまうと自分らしく生きられなくなるので注視が必要です。
わたしは正しいと思った時、人は既に権力争いに足を踏み入れています。誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではないのです。
アドラー心理学の目標とタスク
アドラーは明確な行動面の目標と心理面の目標を掲げています。
行動面の目標:
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
心理面の目標:
①わたしには能力があるという意識
②人々はわたしの仲間であるという意識
また、生きるために逃れられない人生の課題として「仕事」「交友」「愛」の3つのタスクを挙げています。これらのタスクを超えていくことで、自立し、社会と調和すすことができます。自分には能力があると思い、人々を仲間だと思うことができます。
①仕事のタスク
仕事の対人関係は、成果と言う分かりやすい共通の目標があるから比較的難しくないタスクです。
ニートの心理は、求職で不採用になったり、仕事で失敗して、働きたくなくなるのを逃れようとしている状態です。
②交友のタスク
仕事のような強制力が働かないだけに、踏み出すのもむずかしい関係です。友達や知り合いの数には、ほとんど価値はありません。考えるべきは関係の距離と深さです。
③愛のタスク
恋愛関係と家族の関係です。人は「この人と一緒にいると、とても自由の振舞える」と思えたとき、愛を実感します。相手が幸せそうにしていたらその姿を素直に喜べるが愛です。
アドラー心理学は、相手を束縛することを認めません。束縛とは相手を支配しようとする心のあらわれです。不信感を抱いている相手と同じ空間にいて、自然な状態でいることなどできません。
他者の課題を切り捨てる
承認欲求を否定する
アドラーは、他者からの承認を求めることを否定します。承認を求めるのは多くは賞罰教育の影響です。われわれは他者の期待を満たすために生きているのではありません。
自分が自分のために自分の人生を生きないのであれば、いったい誰が自分のために生きるのだろうか
ユダヤ教の教え
良好な関係にはある程度の距離感が必要です。他者の望みをかなえるように生きる不自由をどうして選ぶのでしょうか?自由に生きるには、嫌われる勇気が必要です。
課題の分離とは
他者の課題に踏み込まない。それが課題の分離です。あらゆる人間関係のトラブルは、課題の分離がされていないことよって起きています。
それが誰の課題かを見分ける方法は、それを最終的に引き受けるのは誰か?で考えます。
これは決して、放任主義を推奨しているのではありません。見守ること、援助する用意があることを伝えることは重要です。
また、決して自己中心的になることでもありません。むしろ他者の課題に介入することこそ自己中心的です。他者はあなたの期待を満たすために生きているのではありません。
あなたは世界の主人公ではない
共同体感覚とは
対人関係のスタートが課題の分離、そして、ゴールは共同体感覚です。他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを共同体感覚といいます。
他者はどれだけ自分に注目し自分のことをどう評価しているか?どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか?という心理状態は、他者を見ている様でいて、実際は自分のことしか見ていません。
自己へ執着して、自己中心的にるなのは、課題の分路ができずに、承認欲求に捕らわれているからです。
そこに「自分の居場所がある」と思える所属感とは、生まれながらに与えられるものでなく、自分の手で獲得していくものです。
だから、「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えるべきです。
あなたは人生の主人公であって、世界の主人公ではないのです。
叱ってはいけない、ほめてもいけない
叱ること、褒めることの背後にあるのは操作です。操作は止めて、すべての対人関係を「横の関係」にすべきです。
横の関係での援助が「勇気づけ」です。能力がないのではなく、人は課題に立ち向かう勇気がくじかれているのです。褒められることによって、人は能力がないという信念を形成していくのです。
自分には価値があると思えるためには?
ありがとう。うれしい。助かったよ。
これが横の関係の勇気づけのアプローチです。人は感謝の言葉を聞いたとき、自分が他者に貢献できたと分かります。
そして、自分の主観で「他者に貢献できている」と思えて、自分が共同体にとって有益だと思えたときに、人は自分の価値を実感します。
また、自分に価値があると思えたときだけ、人は勇気が持てます。
それから、相手に感謝を伝える時には、行為にではなく、存在そのものへの感謝が必要です。ありもしない理想像から減点評価をするのではなく、心の支えになっている存在そのものを感じて声をかけることが大切なのです。
更に、存在レベルで自分の価値を感じるのに必要なのは、他者との関係を競争でも、上下関係でもない、対等な横の関係です。
ひとつでもいいから横の関係を築いていくと「この人とは対等に」「こっちの人とは上下関係で」とはならないため、すべてが横の関係になるのだそうです。
誰でも幸せになれる
自分の居場所、共同体感覚を持つ方法
例えば会議のときに、なかなか手を上げられない。自分が笑われるかもしれない。的外れとバカにされるかもしれない。無邪気になることをわたしの自意識が許してくれない。
自己への執着を他者の関心へ切り替えられないのは、自分の居場所はここにあるという共同体感覚が持てていないからです。
そこで、必要なのが、自己受容、他者信頼、他者貢献の3つです。
①自己受容とは
自分の見方を変え、使い方を変えていく。60点の自分をそのまま受け入れ100点にするにはどうしたらいいかを考えること、これを自己受容と言います。
何が与えられているかについては変えることができません。与えられたものをどう使うかについては自分の力によって変えていくことができるわけです。交換不能なものを受けい入れるということをするわけです。
②他者信頼とは
アドラー心理学では、対人関係の基礎は信用ではなくて信頼だといいます。
銀行でお金を借りるには担保が必要です。あなたが返済可能な分だけを貸す、これが信用です。つまり条件付で信じることです。
他者を信じるときに、一切条件をつけない状態で、もし、裏切られても信じ続ける態度のことを信頼といいます。相手に裏切られるかどうかは相手の問題です。もちろん、ここでも課題の分離です。
恋人の浮気を疑えば、山のような浮気の証拠が見つかります。相手の何気ない言動、誰かと話している口調、連絡がとれない時間、疑いの目を持って見るから、ありとあらゆることが浮気に映ります。
信頼の対義語は懐疑です。対人関係の基礎に懐疑を置いていたらどうでしょう。前向きな関係は築けないと容易に想像がつきます。信頼を恐れていたら誰とも深い関係を築くことができません。
他者信頼で深い関係に踏み込む勇気を持てれば、対人関係の喜びは増し、人生の喜びも増えます。
③他者貢献とは
他者貢献とは、仲間である他者に対して、なんらかの働きかけをしていくこと。貢献しようとすることです。
これは、自己犠牲してしまうこととは違います。自分を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ自分の価値を実感するためにやることです。
例えば夕食後、夫も子供も食器洗いを手伝う素振りもない。そんな時、どうしてわたしばっかりと思いませんか?
でも、そうではなく、わたしは家族の役に立っていると考られたらどうでしょう?
イライラしてたら、まず自分自身がおもしろくありません。家族としても近づけないムードです。逆に、鼻歌でも歌い楽しそうにしていれば、自分の楽しくなってきます。夫も子供も手伝いやすい雰囲気です。
これは、家族を仲間だと思えていればできることだとです。
自己受容できれば、裏切りを恐れることなく他者信頼できる。他者を無条件で信頼できてこそ、他者貢献できる。自己受容、他者信頼、他者貢献はプロセスの中でひとつにつながっています。
人生の調和とは?人生の嘘とは?
10人の人がいるとしたら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判する。あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことを好きになれない。そして10人のうち2人は、互いにすべてを受けいれ合える。残りの7人は、どちらでもない人々だ。
ユダヤ教の教えより
人生の調和を欠くと、嫌いな1人に注目してしまいます。
吃音の人や、赤面症の人が、対人関係がうまくいかないのは、ほんとうは自己受容や他者信頼、または他者貢献ができていないことが本当の問題です。吃音や赤面症という、本当はどうでもいいはずのこと、ごく一部にだけ焦点を当ててしまいます。そこから世界全体を評価してしまいます。実は、それは人生の調和を欠いた、人生の嘘です。
ワーカホリックは、仕事を口実に、他の責任を回避しようとする態度です。本来は家事にも、子育てにも、交友や趣味や全てに関心を寄せるべきです。
仕事とは、会社で働くことだけを指すのではありません。家庭での仕事、子育て、地域社会への貢献、趣味、あらゆることが仕事だといえます。
ワーカホリックの人は、行動レベルでしか自分の価値を認めることができないと思います。自分を行動レベルで受けいれるのか、それとも存在レベルで受けいれるか?それが、幸せになる勇気に関わってくる問題です。
幸せとは何か?
貢献感
人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことです。これに対してアドラーは、「私は共同体にとって有益である」「わたしは誰かの役に立っている」という思いが、自分に価値があると実感さえてくれるのだと言いました。
他者貢献は目に見えないもので構いません。誰かの役に立っているという主観的な感覚があればいいのです。これが、すなわち貢献感です。
つまり、幸福とは、ただただ貢献感なのです。
人が承認を求める理由は、自分に価値があると思いたいからです。つまり、欲しかったのは貢献感です。しかし、承認で得られた貢献感には、自由がありません。無邪気でいられません。だから、課題を分離し、承認欲求を否定します。自己を受容し、他者を信頼して他者貢献によって貢献感を得るのです。
普通であることの勇気
幸せが貢献感と言ったものだけでいいのでしょうか?もっと大きな理想や目標はいらないのでしょうか?そんな怠惰でいいのでしょうか?そんな風に思いますか?
多くの子どもたちは、はじめ特別に良くあろうとします。しかし、それが敵わなかった場合、一転して特別に悪くあろうとします。特別な存在になることを目的とするのです。それは、ただの優位性の追求です。
わざわざ自らの優位性を誇示する必要があるでしょうか?高邁なる目標が必要なのでしょうか?
特別になる必要性があるのは、普通の自分を受けいれられないからなのです。
「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てよう
私たちは「いま、ここ」にしか生きることができません。計画的な人生、それが必要かという以前に、それはどこまで実現可能なのでしょうか?
それは、不可能だときっぱりと言い切れます。今を充実させた結果として、どこかに到達するという感覚が、受容するべきありのままの世界だからです。
旅に例えれば、その旅の目的はなんでしょう?
エジプトまで、なるべく効率的に、なるべく早くピラミッドに到着し、そのまま最短距離で帰ってくる旅を想像してください。どうですか?
旅は、家から一歩出た瞬間からもう旅です。目的地に向かう途中もすべての瞬間瞬間の全てが旅です。何かの事情でピラミッドへたどり着けなかったとしても、それは旅です。
過去や未来がどうであるかは、いまここで考える問題ではありません。そして、人生における最大の嘘、それはいまここを生きないことです。人生とは連続する刹那です。
無意味な人生に意味を与えよう
アドラーは、「一般的な人生の意味はない。」と言います。人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものです。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ、わたしによってしか変わらない、そういうものであると結論づけます。
おわりに
以上が私の「嫌われる勇気」の要約です。かなりの思い入れがいろいろあって、自分が振り返りたいた要素を外さなかったため、長文になりました。
自由に憧れる、自由に幸福感を感じる、自由が好き。「嫌われる勇気」はそういう人達のため本だと思います。
また、比較競争の世界から降りて、自分らしい世界観を選びとって、仲間を信頼して、貢献していくというプロセスは、私が日ごろ携わっているブランディングの要件そのもののようにも思えます。
ライフスタイルを変えて、コミュニティとの繋がり方を変えていく、というのは正にリ・ブランディングです。
アドラー心理学は、あなたのパーソナルブランディングにも一役買うような気がしてなりません。
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