アドラー心理学「幸せになる勇気」要約

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本書は、岸見一郎さん 古賀史健さん 共著、哲人と青年の対話でアドラー心理学を解く第二段、完結編です。

あれから3年後、教師になって哲人のところへ戻ってきた青年。彼は、アドラー心理学に感化され、学校の現場にアドラー心理学を持ち込んだ結果、学級を荒らしてしまいました。

このため、哲人にアドラーを捨てるということ告げに、クレーマーとなって帰ってきたのです。哲人の書斎での、青年のあの遠慮なしの暴言の数々が再び繰り広げられます。

人は、自由を求め、生まれもった劣等性からの自立を求め、愛に生きることを再選択する。

本書では、そんな幸せになるための、勇気のステップが明らかにされていきます。この「幸せになる勇気」は、愛の謎を解く一冊です。

尚、この要約は、わたしの備忘録という意味合いが強いため、長文のうえネタバレですこと、予めお含みおきください。

自由を求め自立へ

アドラー心理学は科学なのか?宗教なのか?

哲人曰く、アドラー心理学は、哲学です。

アドラーは自分の心理学を科学だと明言しているそうです。しかし、アドラーが共同体感覚の概念を語り始めたあたりで、こんなものは科学ではないと、多くの仲間が去ったのだといいます。

フロイトの精神分析学、ユングの分析心理学、そしてアドラーの個人心理学は反証可能性を持たないため、科学の定義とは相いれないところがあります。

そして、哲学と宗教の根本的な違いは物語の有無です。宗教は神が主人公の物語で世界を語りますが、哲学は物語を退け、抽象の概念でだけ世界を説明するものです。

アドラー心理学は、科学でなく、もちろん宗教でもなく、哲学です。

教育の目標は自立

アドラーにとって教育は中心課題のひとつでした。また、カウンセリングのことを治療でなく再教育だと考えていました。そして、教育の目的は自立と語りました。

人は、自由を求め、無力で不自由な状態からの自立を求めます。これが根源的な欲求です。知らないことを知っている者が教える。教育やカウンセリングは学問というだけでなく、人間が幸福に生きるための「人間知」を共に考え、自立に向けて援助することです。

 

アドラーの掲げる行動面の目標

①自立すること
②社会と調和して暮らせること

おなじく心理面の目標

①わたしには能力があるという意識
②人々はわたしの仲間であるという意識

 

これらは、教育にもカウンセリングにも、また、生きづらさを感じる大人にも大切な4つの目標です。

そして、自立と言う目標を掲げて教育、指導、援助を行う具体的な入り口が尊敬です。

尊敬とは、ありのままのその人を受けいれること

尊敬とは、人間をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである

社会心理学者エーリッヒ・フロムの言葉

誰かから「ありのままのその人」を認められたら、その人は大きな勇気を得ますから、尊敬とは、いわば「勇気づけ」の原点でもあります。

尊敬は、自分もそうありたいと願う、憧れにも似たあの感情のことではありません。それは、虚像を崇めているだけの姿です。

「尊敬は言葉では示せません。他者の関心事に関心を寄せること。」これが尊敬への第一歩だと哲人は語ります。

「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」一方、これがアドラーが好んで使った表現です。

教育の入り口が尊敬、更に、尊敬への入り口が共感です。共感とは、単なる同調でなく、他者に寄り添うときの技術であり態度です。

悪いあの人の話、かわいそうなわたしの話、これからどうするかの話。さて、どの話をしましょう?

カウンセリングを受ける相談者は「悪いあの人」か「かわいそうなわたし」この2つのことしか話しません。

しかし、本当に語り合うべきは「これからどうするか」の一点です。

そこで、カウンセラーが3つの話どれでもいいから聞かせてほしいと言うと、多くの人が「これからどうするか」を選び、考え始めるのだそうです。

暴力と競争からの解放

叱ってはいけない、ほめてもいけない

教育者やリーダーは叱ってはいけない、そして、ほめてもいけない。それは何故でしょう?

理由1.悪い事だと知らない場合があるから。

なぜ人を叱ってはいけないのか?それは、それが良くないことだと知らなかったという可能性があるからです。虫を殺して遊ぶ子供は残酷なのか?子どもはただ、命の価値や他者の痛みを知らないのです。

つまり、この場合、大人に必要なのは、叱責でなく、教えることなのです。

理由2.問題行動に走る隠された目的があるから

現代アドラー心理学では、人間の問題行動について、その背後に働く目的を5つの段階に分けて考えています。

1)称賛の欲求

親や教師に向けていい子を演じる。彼らの目的は、いいことをしているのでなく、あくまでも、ほめられること、共同体の中で特権を握ることです。いっさいほめなかったら、適切な行動はしません。不満を抱き、憤慨します。罰を与えなければ不適切な行動もとります。いい子であろうとするばかりにカンニングや不正行為も起こります。

対処としては、特別でなくても価値があることを教えることです。いいことに注目するのでなく、その人の関心事に注目し、関心を寄せる、ただ、それだけです。

2)注意喚起

この段階に入ると、褒められなくてもいいからとにかく目立ってやろうとします。学級の中で特権的な地位を得たい、確固たる居場所を欲しています。積極的な子は、いたずらによって、注意を得ようとします。消極的な子は学力の著しい低下を示したり、忘れ物を繰り返したり、泣いたりします。

対処はやはり尊敬。特別である必要はない、そのままで十分価値があることを伝えます。

3)権力争い

ひとことでいうなら反抗をするという目的をとる段階です。誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑みます。戦いに勝利することによって、自らの力を誇示して、特権的な地位を得ようとします。

教師やリーダーの対処としては、すぐさまこの向けられた戦いの場から降りることです。

4)復讐

かけがえのないわたしを認めてくれなかった人、愛してくれなかった人に愛の復讐を目的にする段階です。愛の要求がかなわないとなると一転して、憎しみを求めるようになるのです。憎悪という感情のなかで、わたしに注目して欲しいいと思うようになります。

いわゆるストーカーのように、相手がそれを嫌っていることを承知していて、そこから関係が良好にならないことも理解しています。自傷行為や引きこもりも、復讐の一種と考えられます。自らを傷つけ、価値を毀損して、こんな自分になってしまったのはお前のせいだと訴えているのです。

この段階へ来ると、専門家や第三者に助けを求めるしかありません。

5)無能の証明

これ以上、わたしに期待しないでくれという風に思う段階です。人生に絶望し、自分のことを心底嫌いになり、自分にはなにもできないと信じ込むようになり。そして、これ以上の絶望を経験しないために、あらゆる課題から逃げ回るようになります。

対処は専門家に頼るしかありません。

問題行動のすべては所属感、共同体の中に特別な地位を確保することという目的に根差しているので、これに対処する必要があるのです。

暴力と言う名のコミュニケーション

喧嘩の仲裁に入ったときに、やるべきことは彼らの目的に注目し、彼らとともに「これからどうするか」を考えることです。コミュニケーションの目的は合意です。

言葉によるコミュニケーションは合意するまで労力を要します。一方、暴力は、どこまでもコストが低いわけです。それだけに、安直なコミュニケーション手段で、人間として未熟な行為です。

自分の主張を押し通そうと、怒ったり、泣いたり、そして叱るのも、するのも暴力的なコミュニケーションの言えます。

競争原理から協力原理へ

ほめて伸ばすを否定せよ

叱る教育より褒めて伸ばす教育には一般に一定の評価があります。しかし、アドラーは叱ることも褒めることも否定します。ほめることは能力のある人が能力のない人に下す評価であり、その目的は操作だからです。

もうひとつ、ほめることは、そこに競争原理を産むとともに、他者は敵であるという世界観を植え付けることにもなります。

独裁的な組織では、ほめられることや、叱られないことを目的として従っているのです。他者がほめられれば悔しい、自分がほめられれば誇らしい、いかにして周囲よりも先に寵愛を独占するかという、競争原理に支配されていきます。

競争原理とは、敵と駆け引きと不正を生む縦の社会の原理

マラソンをライバルと一緒に走っていること自体は励みになったり、心強く感じたりするものです。しかし、それがライバルと化した瞬間、打倒すべき敵になります。競争のあるところ、駆け引きが生まれ、不正が生まれます。

独裁的なリーダーの率いる共同体では何を持って勝ちとするのか基準がありません。評価の基準が不明確な分、足を引っ張り合ったり、他人の手柄を横取りしたり、自分だけがリーダーに認められようと媚びを売る人々が現れます。

そんな事態を招かないためにも、組織は、賞罰も競争もない、ほんとうの民主主義が貫かれていなければなりません。競争原理ではない、協力原理に基づいて運営される共同体が、民主主義的な共同体です。

協力原理とは、人間の劣等性を補完する生の基本原理

他者からの評価ばかりを気にしていると自分らしく生きることができません。我々は自由でなければなりません。たしかに理想はそうですが、でも、人間はそんなに強いものでしょうか?

人間は身体的には弱い生きものです。しかし、心はどんな動物にも負けないほど強いのです。

人間は子ども時代、例外なく劣等感を抱えて生きます。心の成長よりも身体の発達が遅く、その結果、心理面でのやりたいことと、肉体面でのできることのギャップに苦しみます。

あらかじめ不完全の存在として人生をスタートさせ、その無力感を経験する子供たちは、ここで生まれる劣等感を、常に努力と成長の促進剤にして成長していきます。

もしも、人間にこのような劣等感がなく、ウマのように足が速ければ、馬車や自動車の発明は無かったでしょう。鳥のように空を飛べれば飛行機が、イルカのように泳げたら船も羅針盤も必要なかったに違いありません。

人間は弱さゆえに共同体を作り、協力関係のなかに生きています。狩猟採集時代の昔から、人間は集団で生活をしました。文明とは、人間の生物的な弱さを補填するための産物であり、人類史とは劣等性を克服する歩みであり、基本原理です。

自立とは、自らの意志で自らを承認すること

自立とは、自らの意志で、自らを承認することです。

問題行動の5段階で、人が称賛の要求に走り、注目喚起や権力争いに打って出るのは、特別な地位を得たいためでした。つまりこれは、かけがえの無いこのわたしが、その他大勢にならないための心理です。

アドラー心理学では、人間の抱える最も根源的な欲求は「所属感」だと考えます。孤立したくない、ここにいてもいいことを実感したいという欲求です。

そこで、ほめて承認欲求を満たし、あなたには価値があるんだと伝えたいところです。でも実は、承認では、つかの間の価値しか実感できず、そして終わりがありません。結局、他者の承認では、ほんとうの価値が実感できないのです。

だから、ほめられることでしか幸せを実感できない人は、最後まで、ほめられることを求めます。そして、その人は依存したまま、永遠に承認を求め続け、満たされることのないまま一生を送ります。

わたしたちは、自らの意志で、自らを承認することが必要です。わたしの価値を自らが決定すること、これを自立と呼びます。

その問題行動はあなたに向けられている

教師やリーターは、相手が起こす問題行動を、幼い時から長い時間過ごしている家庭環境のせいだと思うものです。

しかし、人は、家庭の顔、社会の顔、友幸への顔を使い分けているのです。学校では問題行動を繰り返しながら親の前ではいい子にしている場合もあります。

あなたの目の前で起こされた問題行動は、あなたに向けられた行動です。だから、あなたが受け止めなければなりません。

尊敬を通じて、その居場所を示していかなければなりません。

エゴイストは誰も救えない

不幸を抱えた人間による救済は、自己満足を脱することがなく、誰一人幸せにしません。他者を救うことを通じて、自分が救われようとするからです。

自分を救世主にしたてて自分の価値を実感しようとする。これは劣等感を払拭できない人が、しばしばおちいる優越コンプレックスであり、一般にメサイヤ・コンプレックスと呼ばれます。

救済には、まず自分が幸せになる勇気が必要です。

尊敬から信頼へ

仕事を分業するため人間は社会を形成した

自然界で、身体的に劣等性を抱えた人間は、ただ、群れを作ったのではなく、分業という画期的な働きかたをするために社会をつくりました。

人間はなぜ社会を形成するのか?それは、働くため、イコール、分業するためです。生きることと働くこと、そして社会を築くことは不可分です。

われわれは働き、協力し、貢献すべきです。他者と分業するためには、その人のことを信じなければなりません、それが信用の関係です。

すべての仕事は共同体の中で誰かがやらなければならないことであり、われわれはそれを分担しているだけ。つまり、人間の価値は、どんな仕事に従事するかによって決まるものではありません。

交友関係では、先に相手を信じる

普通の友人の前では、人はなかなか仮面を脱げません。傷つくことを避けているからです。あらゆる人が本音をぶつけ合う世の中は地獄絵図です。

しかし、親友の前では仮面を脱ぐくことできます。それで傷つけ合うことになっても、関係は崩れません。たとえ、一度や二度の不義理を働いても、それだけを理由に関係を経とうとは思いません。お互いの短所も長所も受け入れたうえで、関係を結んでいるわけです。

われわれは、そういう他者との繋がりを求めています。そして、他者と手を繋ぎたいのならば、自分から手を差し出すことです。他者がわたしを信頼してくれるかどうかは他者の課題なので、むしろ、信じられていなくても、先に信じ、信じ続けることしかできないとも言えるのです。

われわれ人間は、わかり合えない存在だからこそ、信じるしかないのです。

愛のタスク、愛の選択へ

愛とはふたりで成し遂げる課題である

落ちる愛は所有欲や征服欲と変わりない。落ちる愛が注目しているのは結ばれるまでの物語、アドラーが注目したのは結ばれた後の関係でした。

落ちる愛は、愛するべき人との出会いさえあれば、勝手に愛の嵐が吹き荒れます。アドラーの解く愛は、ふたりで成し遂げる課題です。

2人で何を成し遂げるもの、それは幸福です。不可分なるわたしたちの幸せを築き上げること。それが愛であり、本当の愛を知ったとき、人生の主語が、わたしから、わたしたちへと変わります。

ひとことで言えば、愛はわたしからの解放です。つまり、愛とは自立です。自立とは甘やかされた子供時代(自己中心性)からの脱却です。

人生の新たなスタートで、たったふたりから始まったわたしたちは、やがて共同体全体に、そして人類全体にまでその範囲を広げていくでしょう。それが共同体感覚です。

愛することを恐れないで

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。愛するとは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。

社会心理学者エーリッヒ・フロムの言葉

相手の行為をなんとなく察知した時、その人のことが気になり、やがて好きになっていく。これは担保のようなものを感じているからです。

一方、フロムの語る「愛すること」は、そのような担保をいっさい設けないことです。

自分を愛することができない人は、大きな劣等感を抱え、傷つくに違いないと自らの劣等感を解決しない言い訳にする劣等コンプレックスに陥っている。

結局は、この人はわたしを愛してくれるのか?しか見ていない。相手のことを見ている様で、自分のことししか見ることができない。そんな態度で待ち構えている人を愛してくれるのは両親だけです。

世界はあなたの母親ではない。人は子ども時代のライフスタイルを刷新しなければなりません。どんな独裁者であっても、尊敬と愛だけは強要することができません。

愛とは決断だ

誰かのことを愛してたいと思っているのに、なぜ愛に踏み出せないのか?それは、肝心の愛するべき人に出会えていないからではないのか?

しかし、アドラーは運命の人をいっさい認めません。運命の人の存在を信じるのは、すべての候補者を排除するためで、結婚相手にロマンティックな幻想を抱くためだといいます。

関係に踏み出す勇気をくじかれた人は、運命の人という幻想に縋りつきます。目の前に愛すべき他者がいるのに、あれこれ理由を並べて、この人ではないと避けるのです。

誰かを愛するということはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。

社会心理学者エーリッヒ・フロムの言葉

出会いの形など、どうでもいい。もしも、そこから本当の愛を築いていくための決意を固め、ふたりで成し遂げる課題に立ち向かうのであれば、いかなる相手との愛もあり得ます。

運命とは、自らの手で作り上げるものです。

ライフスタイルを再選択せよ

あなたの願いは「幸せになりたい」ではなく、もっと安直な「ラクになりたい」ではありませんか?

愛の関係には、楽しいことばかりは起きません。引き受ける責任は大きく、つらいこと、予期せぬ苦難もありえます。それでもなお、愛することができるかです。

例えば、花が好きと言いながら、すぐに枯らせてしまう人がいます。水をやるのを忘れ、八の植え替えもせず、日当たりのことも考えないで、ただ見栄えのいいところに鉢を置いています。

確かに花は好きなのでしょう。しかし、それは花を愛しているとは言えません。愛はもっと貢献的な働きかけです。

愛するという意味を知らずに、花に水をやることも、タネを植えることもしないで責任から逃げれば、恋愛の果実だけをむさぼる享楽になります。

そして、われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されて、自立を成しえて、共同体感覚にたどりつくのです。

おしまいに

自由と自立、これは、わたしがこれまで生きてきて重要視しているキーワードだったのですが、この本では、自由と自立をこのように描かれています。

人はみな「自由」を求め、無力で不自由な状態からの「自立」を求めている。

言われてみれば、もっともで、どうしてこれまで自由と自立をバラバラなものととらえていたのか、むしろ自分に驚きました。そして、

愛はわたしからの解放です。愛とは自立です。

これには、本当に恐れ入りました。全く分かっておりませんでした。

また、なんとなく頭の中では抵抗し続けてきた競争原理についても、協力原理という言葉とともに、人間が劣等感をバネに成長を続けてきた基本原理だというクリアな理論も教わりました。

そして、尊敬から信頼へ、そして愛へという人生のタスクについて。

ここについては、言っている意味はよく理解できました。しかし、わたしの「現場」との少々のギャップも感じました。

それは、仕事は信用、交友は信頼という主に仕事についての取扱方です。

現代では、自分たちの仕事を擬人化させ、つまり、ブランド化させて、ユーザーとのコミュニティを共有することが普通です。そこには、ユーザーに対するコンサルティングという教育的な要素も含まれますし、世界観や価値観の共有といった、まるで、愛のタスクのようなコミュニケーションが不可欠になっています。

ここについては、時代の変化であって、私たちが、アドラー心理学を更新するべき部分なのかもしれません。もう少しアドラーへの理解を深めながら考えてみたいところでした。

ただしかし、もし今のわたしをアドラーさんに診てもらうようなことができたとしたら。「それは人生の嘘。人生のタスクにバランスを欠いたワーカホリックですね。」と、診断されそうでもあります。

かなりの長文をここまで、お読み頂いてどうもありがとうございました。

以上、「幸せになる勇気」のまとめでした。

アドラー心理学「嫌われる勇気」の要約はこちらへ

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