『21 Lessons 21 世紀の人類のための 21 の思考』要約

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著者紹介:ユヴァル・ノア・ハラリ Yuval Noah Harari
歴史学者、哲学者。1976 年イスラエル、ハイファ生まれ。オックスフォード大学で中世史、軍事史を専攻して 2002 年に博士号を取得。現在、エルサレムのヘブライ大学で歴史学を教えるかたわら、2018 年のダボス会議での基調講演など、世界中の聴衆に向けて講義や講演も行う。

著書『サピエンス全史――文明の構造と人類の幸福』『ホモ・デウス――テクノロジーとサピエンスの未来』、そして『21 Lessons』は世界的なベストセラーとなっている。

はじめに

本書について、「はじめに」で、その概略を紹介している。

前著『サピエンス全史』では、人間の過去を見渡し、サピエンスが地球の支配者となる過程を考察した。

また『ホモ・デウス』では、生命の遠い将来を探究し、人間がいずれ神となる可能性や、知能と意識が最終的にどのような運命をたどるかについて、考察した。

本書では、「今、ここ」にズームインしたいと思っている、と。

今、何が起こっているのか? 今日の重大な課題や選択は何か?わたしたちは何に注意を向けるべきか? 子どもたちに何を教えるべきか? この本は、多くの人々との対話、投げかけられた疑問に答えるかたちでつくられていると述べている。

本書では、当面している政治とテクノロジーにまつわる苦境を概観する。

20 世紀の初頭は、ファシズムと共産主義と自由主義のイデオロギーの激しい戦いがあり、自由主義(民主政治、人権、自由市場資本主義)が圧勝したかに見えた。

しかし、意外にも、その自由主義が窮地に陥っている。

IT とバイオテクノロジーの革命的革新とこの2つの融合は、これまで出あったことのない難題をつきつける。

雇用市場から排除される人たちが大量に出現することで、自由と平等が損なわれかねない。

ビックデータを利用するアルゴリズムがデジタル独裁政権を打ち立て、権力が少数のエリートに集中する一方で、大半の人たちは、無用化に苦しむことになるかもしれない(『ホモ・デウス』の議論)。

ここでは本書のⅠからⅤまで順次ふれていきたい。

自由主義の信頼の陰りとテクノロジーの台頭――Ⅰ テクノロジー面の難題

オバマ大統領は、2016 年 9 月の国連での最後の演説で「国家や部族や人種や宗教どうしを隔てる昔からの境界に沿って明確に分割され、ついには争いが起こる世界へと」後退してはならないと聴衆に警告した。

そうした後退をすることなく、「開かれた市場と責任ある統治、民主主義と人権と国際法の原理が……今世紀における人間の進歩の最も強固な基盤であり続ける」と述べた。

自由主義は多くの短所を持っているが、他の選択肢よりも優れているという指摘だ。

だが、自由主義は、私たちが直面している最大の問題である生態系の崩壊と技術的破壊(テクノロジーが引き起こす、職や伝統、制度、機関などの破壊や喪失、および混乱や無秩序を招く急速な変化)に対して、何ら明確な答えを持っていない。

自由主義は経済成長に頼ることで社会的な争いや政治的な争いを解決してきたところがある。ところが経済成長はグローバルな生態系の危機の原因となっている。

また経済成長は技術的破壊を解消できないし、今後の数々の発明、イノベーションが技術的破壊を加速させることになる。

来たるべきバイオテクノロジーと IT の革命と融合の時代を前にして、今後の数十年は真剣に内省して、新しい社会モデルや政治モデルを考案する時代になるかもしれない。

機械化による雇用喪失という点では、AI 革命は従来にないかたちが生まれる可能性がある。

農業と工業で肉体労働が自動化されるなかで、人間だけが持っている種類の認知技能、学習や分析、意思疎通、情動の理解を必要とするサービス業が出現したが、今や AI が人間の情動の理解を含めて、人間を凌ぎ始めている。

その背景には、神経科学や行動経済学の領域の研究のおかげで、人間の情動や欲望や選択を支える脳の生化学的なメカニズムの理解が深まったことだ。

科学者たちの人間をハッキングする研究が進むと脳の生化学的アルゴリズムを、今度はコンピューターに置き換えることで、AI は人間を超える技能を持つことになる。

これが従来の機械化による雇用喪失とは違う点である。

「平等」について、ハラリは「二〇世紀の歴史はおおむね、階級や人種やジェンダー間の不平等の縮小を中心に展開してきた」と述べたあとで、グローバル化による経済的繁栄は世界中に富の配分をもたらすかに見えたが、一部の集団がその成果を独占して行く一方で、何十億の人々が取り残されており、不平等が増す兆候が見られるという。

さらにビックデータが世界を制する時代がすでに始まっており、データを日々提供し続ける人々とそれらデータから得られる利益を享受する人たちとの間に大きな格差・不平等が生まれるに違いない。

ナショナリズム、宗教、文化を超えた協力は可能か――Ⅱ 政治面の難題

ハラリは『サピエンス全史』で、人類は統一の方向に向かっていることを述べていた。

人類は無数の孤立した部族に分かれていたが、時の流れとともに、それらの部族が融合して、次第に大きな集団となっていった。

異なる文明は数を減らしていき、残っていた文明も、単一のグローバルな文明にまとまりつつある。確かに今日、全人類は単一の文明を構成しており、共通の難題と機会を分かち合っている。

それにも関わらず、イギリス人、アメリカ人、ロシア人をはじめ、無数の集団がナショナリズムに基づく孤立を次第に支持するようになってきている。

これでグローバルな世界が抱える前例のない問題の解決策は得られるのだろうか、と問うている。

再びロシア、アメリカは核軍拡競争に乗り出そうとしている。核の脅威は高まりつつある。核戦争を防ぎ、グローバルな平和を守る国際主義の政治体制を構築するのは、難しくなっている。

わかりきったことだが、私たちの生存にとっては、特定の国の国益よりも核戦争の防止を優先することである。

私たちは地球環境から資源を取り出す一方で、膨大な量の廃棄物と毒物を環境に送り込み、土壌、水、大気の組成を変えている。

こうして生態系の均衡を乱すことで、生育環境は劣化し、動植物が死滅しようとしている。人間の文明の基盤までが蝕まれかねない事態だ。

また、大きな脅威となっている気候変動は後戻りできない臨界点に近づきつつある。

こうした脅威にナショナリズムは答えをもっているのか。こうした脅威に効果をあげるにはグローバルなレベルで行わなければならない。ここでハラリは次のようにいう。

21 世紀においては、国家は昔の部族と同じような状況に置かれている。時代の重要な課題に対処する枠組みとして適切ではない。新しいグローバルなアイデンティティを必要としている。

生態環境、経済、科学はグローバルな時代になっているにも関わらず、政治は国政レベルに留まっている。

政治をグローバル化しなければならない。

それは「グローバル政府」設立の呼びかけではない。国家間の協調により対処することだと考えているようである。

宗教は、政治的な力をもっている。しかし、21 世紀のグローバルな問題を解決するとなると、宗教が提供できるものは殆どないように見える。返って、ナショナリズムの手先となっているという。

自国文化中心主義の弊害と求められる謙虚さ――Ⅲ 絶望と希望

今日、世界が抱えている問題の一つに、テロの危機をあげている。この対処として、過剰に反応しないことだと述べる。テロリストは 100 人を殺害しただけで、どの木陰にも殺人者が潜んでいるかのように 1 億人に想像させる。

私たち自身、恐怖心に過剰に反応すればテロは成功する。冷静な反応は、テロを失敗に導く、と。

かつての戦争は、勝利者に経済的繁栄をもたらしたが、現代においては、そうした旨みはない。失敗すれば多額な浪費と屈辱にさらされる。ロシアのクリミア半島の占領・併合の成功は例外的なもので、これを他の地域で再現することは難しい。

今日の主な経済的資産は技術的な知識や組織の知識であり、知識は戦争で征服することができない。

また軍事テクノロジーの変化もある。核兵器やサイバー戦争は、損害が多く、利益の少ないテクノロジーということもある。

紛争を抱えている為政者たちも大言壮語はするが戦争に踏み切ることには慎重である。

21 世紀において、戦争は損な企てだとしても、平和の絶対的な保証にはならないだろう。

人間の愚かさは、決して過小評価するべきではない。人間は個人のレベルでも集団のレベルでも、自滅的なことをやりがちだからだ、とハラリは言っている。

危機の時代にあって、求められるのは、自分中心主義、自民族中心主義、自文化中心主義を改める謙虚さが必要だと語る。

ここでハラリは自文化中心主義のひとつの例として、自分たちの国のユダヤ人とユダヤ教について語っている。

宗教は普遍的な倫理を説くが、ユダヤ教、キリスト教より、ずっと以前に孔子、老子、ブッダ、マハーヴィーラが説いている。

孔子は誰もが他者を自分自身と同じように愛さなければならないと説いた。

ブッダ、マハーヴィーラは、あらゆる人間ばかりでなく、昆虫さえも含めて感覚ある生物のどれ一つとして害するのを避けるように、信者に指示している。

しかし、ハラリはこうも言っている。多くの宗教は謙虚さの価値を称賛しているが、結局は、自らが最も重要だと考える。

個人には従順さを求めつつも、集団としては目に余るほど傲慢である。

どんな宗教をもつ人でも、謙虚さをもっと真剣に受け止めるといい。

確かに、人は神の前では、謙虚であるかもしれない。神について語るときは控えめであっても、神の名を使って同胞に対するときは大きな顔をするものだ、と言っている。

ハラリは神について、次のようにいう。

過去数世紀を振り返ればわかるが、道徳的な生活をおくるためには、神の名を持ち出す必要はない。必要な価値観はすべて、世俗主義に提供してもらうことができる。

ここでいう世俗主義とは何か。世俗主義というと宗教を否定する人で虚無的な人のようにみられるが、そうではない。肯定的で積極的な世界観をもっている。

世俗主義の倫理規定は、真実や思いやり、平等、自由、責任といった価値を重んじる。

こうした価値観の多くは宗教伝統とも共有している。ただ違うのは、一部の宗派にみられるような叡智と善を独占しているようなものいいはしない。

道徳と叡智は、全人類が自然に受け継いできたものだといった捉え方だ。

世俗主義者は科学的真実を大切にする。それはこの世の苦しみを減らす最善の方法を知るためだ。

世俗主義の教育は、子どもたちに真実と信念を区別したり、苦しんでいる一切の生き物に対する思いやりを育んだり、地球に暮らすあらゆる人の叡智と経験の真価を理解したり、未知を恐れずに自由に考えたり、自分の行動と世界全体に対する責任を引き受けたりすることを教える。

宗教やイデオロギーや信条にも陰の面がある。

世俗主義者のいう科学には、科学的真実から外れていれば、誤りや盲点を認める。これからの生命の歴史の中で最も重要な決定を下すにあたって、無謬性を主張する人より無知を認める人を信頼したい、と世俗主義の利点を上げている。

プロパガンダ、偽情報に惑わされずに真実を知ることはできるか――Ⅳ 真実

近代が生み出した自由主義の思想は、合理的で主体的な個人を前提としている。

しかし、人間の決定のほとんどが、合理的な分析ではなく、情動的な反応と経験則による近道に基づいている。これは行動経済学者や進化心理学者によって証明されている。

人間はめったに単独では考えない。

私たちは集団で考える。地球の主人になれたのは、個人の合理性ではなく、大きな集団でいっしょに考えるという比類のない能力のおかげだ。

私たちは個人として知っていることはわずかである。

狩猟採集時代に培った集団の思考では、今日のような複雑な社会で起こっていることを知るのは困難で、私たちは無知であることに気づいていない。

無知である私たちは、どうすれば不正義と正義を見分けることができるか。何が真実なのかを知る努力をしなければ、知らぬが仏の状態にとどまり、知ろうとすると真実を見つけ出すのに大変な苦労をすることになる。

私たちが直面しているのはグローバルな問題だが、いっしょに考えるグローバルなコミュニティはまだ形成されていない。

だから、既存の集団の現実解釈は、手前勝手になる可能性が高く、とうてい信頼できない。

私たちは「ポスト・トゥルース」の新時代に生きているというが、実際には、ホモ・サピエンスはずっとポスト・トゥルースの時代に生きてきた。

※ポスト‐トゥルース【post truth】 の解説
《「真実後、脱真実」の意》世論の形成において、客観的事実よりも感情的・個人的な意見のほうがより強い影響力をもつこと。受け入れがたい真実よりも個人の信念に合う虚偽が選択される状況をいう。2016年、英国のEU離脱決定や米国のトランプ大統領就任に関して多く用いられ、広まった語。

虚構を作り出し、それを信じることで、人間の共同性を高めてきた。

ここで人間の協力の力を発揮するためには、虚構の力だけではだめで、真実と虚構のバランスが重要になる。真実を虚構と区別する努力が必要になる。

真実に至るには信頼に足る科学的事実が拠り所になる。

科学界は何世紀にも渡って、最も信頼できる知識の源泉であり続けた。科学者は今日的な最新の議論に積極的に関与すべきである。

前代未聞の変化の時代を前にして、何をすればいいのか――Ⅴ レジリエンス

22 世紀の世界で生き延び、活躍するためには、子どもたちに何を教えるべきなのか?

テクノロジーによって体と脳と心が作り変えられようになってしまえば、何ひとつ確かに思えるものはなくなってしまう。

21 世紀の今、有り余る情報にさらされている。最新の情報を手に入れられるが、矛盾する話も多く、何を信じていいか困るのが現実だ。

人々が求めているのは、情報ではなく、その意味を理解し、重要なものとそうでないものを見分ける能力である。

そして何より、大量の情報の断片を結びつけて、世の中の状況を幅広く捉える能力である。

2050 年頃には、AI は人間を凌ぐものになっている可能性がある。

教育専門家は、批判的思考、コミュニケーション、協働、創造性を教えるべきだという。一般的にいうと、専門的な技能よりも汎用性のある生活技能を重視したほうがよいという。

重要なのは、変化に対処し、新しいことを学び、馴染みのない状況下でも心の安定を保つ能力である。

変化のスピードは速まり、それにつれて、経済だけでなく、「人間であること」の意味そのものさえ変化しそうだ。
そのような世界で生き延びるためには、精神的柔軟性と情緒的なバランスが必要となる。

バイオテクノロジーと AI の進歩により、人々の情動や欲望を操作するようになる。そうした中で自己を保つためには、自分のオペレーティングシステムをもっとよく知る努力が必要だ。

人間がハッキングされる時代、まさに「汝自身を知れ」ということだ。

私は何者か? 人生で何をするべきか? 人生の意味は何か? これらにどう答えるかだ。人生の意味という問いに対して、人は物語をもとめる。ホモ・サピエンスは物を語る動物だからだ。この世界を物語として理解し、自分をその一部として意味づける。

ヒンドゥー教や仏教に見られる輪廻転生などがそれだ。またナショナリズムも物語に奉じている。

物語は2つの条件を満たせば、私の人生に意味を付与することができる。

第一は、私に何か役割を与えること、第二は、物語が私の地平の外まで続いていることだ。

物語は、私を何か大きなものの中に埋め込むことで、私にアイデンティティを提供し、人生に意味を与えてくれる。だが、そこにはいつも危険がある。自分の物語の圏外にあるものに目もくれなくなることだ。

世界は物語のようには展開しない。

にもかかわらずこうした虚構を信じるのは、個人のアンデンティティが物語の上に築かれており、自分たちの所属する集団の制度や機関も物語の上に築かれているからだ。

だから物語を疑うことは恐ろしいことになる。

近代社会は過去から受け継いだ膨大な物語を退けなかった。その代わりに物語のスーパーマーケットを開いた。近代以降の人間は、自由に自分の好みに合うものを選び、組み合わせたりできる。

しかし、自由主義の神話は、その棚に並ぶ物語がみな偽物だと気づき、私こそが自分の自由な選択と自分の感情を通して、すべてのものに意味を吹き込むと考えた。

自由主義の物語では、創造主は私である。人生の目的とは、感じ、考え、欲し、発明し、それによって意味を生み出すことだ。これを制限するものは宇宙の意味を制限することになる。

制限からの自由が至上の理想となる。しかし、私たちの選択や創造の背後にあるのは生化学的アルゴリズムなのだ。
自分の欲望が生化学的プロセスの産物であることが理解できれば、欲望に夢中になることはなくなるかもしれない。

私たち人間は、虚構の物語を創作して、それを信じる能力のおかげで世界を征服した。だから虚構と現実の見分けるのが苦手だ。この違いを知りたければ、苦しみが出発点になる。

なぜなら、この世で最も現実味があるのが苦しみだからだ。

政治家が犠牲、永遠、純粋、救済といった言葉を語りだしたら警鐘を鳴らそう。

苦痛に悲鳴を上げる兵士、殴打され、残忍な仕打ちを受ける女性、恐れ震えている子どもと言い換えるように努めてほしい。

もしこの世界や人生の意味や自分のアイデンティティについて真実が知りたければ、まず苦しみに注意を向け、それが何かを調べるのに限る、それは物語ではない、とハラリは訴える。

最後にハラリは瞑想について語る。

瞑想からの気づきで重要なことは、自分の苦しみの最も深い源泉が自分自身の心のパターンにあるということだった。

これを学ぶことで、さらなる苦しみを生み出すのをやめるための最初のステップとなる、と語っていた。

また、心脳問題にふれて、脳を探る機器はあるが、私たちが直接観察できる心は自分の心だけで、自分の心を客観的に観察するのは難しい。

古代の文化のなかに様々な心の研究があり、それを総じていえば「瞑想」ということになる。

脳と心が一つのものかどうかを探るには、その両方から探る事が必要だ。

瞑想はたんに集中だけでなく、心の探究を目指している。アルゴリズムが私たちに代わって、私たちの心を決めるようになる前に自分の心を理解しておかなければならない。

人間は自分自身について複雑な物語を創り出し、そのせいで私たちが本当に何者かを知るのが困難になった。あと数年、数十年はまだ選択の余地がある。

努力すれば、私たちが何者なのかを吟味できる。すぐにそうするしかない、と本書を締め括っている。

おしまいに

あのハラリが、この壮大なストーリーの最後を『瞑想』に落とし込んだことが意外でした。

アドラーもそう教えていますが、やはり「今ここ」を感じて生きる事に、いつも最後の答えがあるようです。

瞑想というと、なんだか怪しいとか思えがちですが、ジョブズやジョーダン、イチローや各界のスーパーマンたちがこれを推しています。

最後に、ゆるくカジュアルな瞑想の仕方をご紹介して、この記事を締めくくりたいと思います。

やさしい4ステップ、マインドフルネス

マインドフルネスとは、瞑想を通じた脳とか心の休息法の総称です。

基本姿勢

背筋を軽く伸ばして椅子に座ります。その時にお腹はゆったりとさせて、太股に軽く手を置き、目を閉じます。ごく自然な姿勢で椅子に座ります。

身体感覚に注意する

目を閉じた後に、自分の体の感覚に注意を向けていきます。体の感覚というのは、体が何処かに触れている感覚のことです。

例えば、椅子に座っているお尻とか、床についている足、履いている靴下とか靴の感覚、太股についている手、手がついている太股、こういったものを感じていきます。

呼吸に意識を向ける

鼻を通る空気の感覚、お腹が膨らんだり凹んだりする感覚、ひとつひとつの呼吸の切れ目、呼吸のリズム、呼吸の深さ、吐く息、吸う息の温度の違いなんかを感じていきます。

別に、呼吸の仕方に拘る必要はないです。呼吸の自然な流れに任せていきます。とにかく、その呼吸事態に意識を向けていくわけです。

ノンジャッジメンタル

ノンジャッジメンタルというのは判断しないことです。

マインドフルネスをやっているうちに、いろんな雑念が浮かんできたりするんです。

こんなことやって意味あるのかな?とか、明日の仕事であれやらなきゃとか、呼吸に意識を向けていても、こういう雑念が浮かんでくること当然なんです。

そういうとき、あーダメダメだとか、へんなこと考えているって、判断をしないでください。

今、そういう思いが浮かんだな、そういうこと考えたな、OKオッケー。そう思って呼吸に注意をもどしていくことが大切です。

思いが浮かんだとしても、それを単純に認めていけば、そのうち考えの方が瞑想をよけていってくれるようになります。

脳が休まる、集中力が上がる、人に親切になれる、イライラが消える等、様々な効果が表れてきます。

CAUTION!

いいこといっぱいのマインドフルネスなのですが、やっていくうえで、ひとつだけ注意したいことがあります。

それは、

あまり正確さに拘り過ぎないでください、ということです。

完璧主義に陥ったり、どうやるべきかとか、どうやらなければいけないかとか、そういうことを考えては、逆効果なんです。

10年以上前から、アメリカなどでは当たり前のように行われているこのマインドフルネスの取り組みです。

ただ、日本であまり流行らない理由のひとつとして、正しくできえいるか?効果はでるかな?ということを気にしいの気質のためだという意見があります。

細かいことを気にしすぎるのは本末転倒です。

マインドフルネスは今ここに対する気づきを大切にします。未来の心配とか過去の後悔とかでなく、今ここの体験そのものを大事にすればいいんです。

やり方がどうか?効果はあるか?を考えてしまうことこそが、マインドフルネスじゃない状態なんです。

肩の力を抜いて、自然体でやってみてください。

そういっても、一人でやるのは大変かもしれません。なにか実績あるサービスや商品を著ってみるのもいいと思います。楽に続けられるということ大切だと思います。

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