人のために生きるられる?

共同体感覚

人の為に生きることをうまく行動に移せない。本当は、人のために生きるのが、きっと正しいと思っているにも関わらず。

この記事では、そんな気持ちの時に次の行動を起こすために、どんなアプローチが考えられるのかを実際のディスカッションを通じて紹介します。

結果的に、アドラー心理学で言う「自分の居場所」共同体感覚へのアプローチから勇気をもらうことになりました。

discussion ほんと 人のために生きたくない

相談者:

今まで上手くいった事無いし、人に優しくするの全然楽しく無いし損にしか思えない。

てか、それが迷惑になる事だってある(皆が皆されて嬉しい事は違う。個性だから)そしたら言い訳だって言われた。その通りなのかも知れないけど、私は本当にそう思ってしまう。

余計な事したく無いなって自分が傷つくし、なんでこんな風に思うんだろう…自分でも分からなくて不思議。

人の為に行動した方が絶対に得なのに。凄く嫌だ。やりたくない。なんでなんだろう。

人に好かれたいとは思うくせに、人の為には行動したくない。これって最高に自己中だって分かってるのに。

あと、自分がされて嬉しい事を人にしろって言うけどそれが分からないんだよ。自分がされて嬉しい事って何??相手に何も期待してないから別にされなかったらされなかったで平常運転だよ。本当に気持ちの欠如感が凄い。

お願いします。最低の文章だとは分かっているですが、これでもどうやったら人の為に行動できるんだろうと本気で悩んでいます。

コウノ:

人は結局、繋がりを求めているんだと思うんですよ。所詮、群れを成すサルなので。これはいかんともしがたいところだと思います。

ただ、その繋がり方にはたくさん選択肢があって、自分らしい理想の繋がり方というのをそれぞれ選んでいるんだと思います。

自分からは何もしない、でも、相手にはたくさんいろいろしてもらいたいというのを理想にする人がいてもいい。

自分からいろいろするけど、何も見返りを求めないのを理想にしてもいい。平等なるギブアンドテイクを理想にしてもいい。理想的な繋がりを求めても無駄なので、繋がりなんて持とうとしないのなら、それもいい。そこは自由。

でも、100%自己責任です。何が自己責任かというと、人からしてもらうのを充てにするばっかりや、ギブアンドテイクはの繋がりは、人の匙加減に振り回されます。自由じゃない。

そうかといって、あげるばっかりの繋がりは利用されるかもしれない。騙されるかもしれない。

じゃ、繋がらない作戦は?といえば、そもそもサルなので繋がりたい気持ちがふつふつと湧いてきて不安で寂しくなる。

何をどうしたって、完全無欠の形はありません。人は対人関係で必ず傷つきます。だから、せめて、好きなのを選びます。

わたしは見返りを求めないと決めてます。

相談者:

どうやったら見返りを求めない様にできますかね??
凄く傷つくんです

コウノ:

損した気持ち?
せっかくやったのに喜んでもらえない虚しさ?
どんな気持ち?

相談者:

損した気持ちは、やってもやらなくても意味がなかったなって凄くがっかりします。

これだったらやらなきゃ良かった、勇気だしてやったのに、嫌がられたりした時(本当にあります)は本当に悲しい気持ちになるし、こんな気持ちになる可能性が1ミリでもあるならやらなきゃ良かった。損だったなと思います。

せっかくやったのに喜んでもらえない虚しさは、自己中だとは分かっているのですが、相手に喜んで欲しくてやったのに反応がなかった時、とても虚しくなります。恥ずかしいって思います。

私は最低な話、親に優しくするのもできません。恥ずかしい。壁ドンぐらいに恥ずかしい…

特に皿洗いやっといたよ!とか料理作っといたし!とかベタな優しさが、上手く言えないんですが、恥ずかしいんです。やりたくない!って思います。

すみません長々と…
質問に答えて頂きありがとうございます

コウノ:

あなたの好意を嫌がったり、無反応だったり、どう受け取って、どう返すかは、相手の自由ですからね。そこに捕らわれてしまうと、お互い不自由だし、お互い自分らしさを失ってしまいます。

まず、ありのままのあなたと自分らしさを信じて。誰だって足りないものがあって当たり前。足りてるものと努力と工夫で、埋めようとする姿勢があれば恥じることは何もないから。

そして、同じようにありのままの相手を信じる。やっぱり足りないものある。よく分からない事情やその人らしさもあるけど。その人が居てくれなければ困る、居てくれるだけでありがとうと、身近な人になら必ず思えますから。

その上で、尊敬の気持ちを示します、あなたらしく。これは相手に承認してもらうためでも、何かお返しをしてもらうためのものでもなく。自分がその人のそばに居られること、その人が自分のそばに居てくれることに対する感謝の気持ちとして。

それを嫌がられたり、無反応だったりしたら、あらま!とでも思います。その人の事情や個性を分かってないんだな、自分、とでも思えばいい。次はもう少し好評を得ようか、とでも思えばいいです。

確かに傷つくこともあるけれど、自分とは違った、相手の個性も自由も事情もある訳だから、生きていれば人間関係に傷つくのも当たり前です。そこまで織り込み済みにしておくことが、あなたを伸びやかに、自由に、あなたらしく居させてくれるんじゃないと思います。

相談者:

丁寧に答えて頂きありがとうございます ありのままの相手を信じるというのは特に目から鱗でした。

確かに、当たり前ですが、相手も完璧じゃないんですもんね…そこが不思議と抜けていました…

次はもう少し好評を得ようかは鋼のメンタル過ぎませんか笑 出来るよう…頑張ってみます。

私は勝手に自分で納得しているんですが、相手の事を何処か完璧だと思い混んでしまう所があるなと思いました。

まずは、その強烈な先入観から取り除こうと思います
ありのままの自分やっぱ大事ですよね。

そこも今まで全く大切にしていなかった処か、今の自分じゃ駄目だとか、そんなはずない、自分がそんな奴なはずがない、って1ミリも認められなかったんです。

でも最近、それは少しマシになりました。これから私らしさを模索していきたいと思います。

アドラー心理学 共同体感覚の実践

自己への執着を他者の関心へ切り替えられないのは、自分の居場所はここにあるという共同体感覚が持てていないからです。

そこで、必要なのが、自己受容、他者信頼、他者貢献の3つです。

自己受容とは

60点の自分をそのまま肯定的に受け入れて、100点にするにはどうしたらいいかを考えるのが自己受容と言います。

何が与えられているかについては変えることができません。与えられたものをどう使うかについては自分の力によって変えていくことができます。

また、アドラーは、課題の分離を説き、承認欲求を否定します。ですから、この自己受容は、正に他者が自分を承認するかどうかは他者の課題であるため干渉しないこと、期待しないことにして、自分で自身へ承認を出して、欲求を満たす態度でもあると考えられます。

これを、もっと一般的でもっと端的な言葉に私なりに翻訳すると「ありのままのあなたを信じて」となります。ちょっとディズニー映画の様で、大人が真顔で言うと臭いのですが。

他者信頼とは

アドラー心理学では、対人関係の基礎は信頼だといいます。他者を信じるときに、一切条件をつけないこと。もし、裏切られても信じ続ける態度、これを信頼といいます。

相手に裏切られるかどうかは相手の問題、もちろんここでも、課題は分離します。そして、他者信頼で深い関係に踏み込む勇気を持てれば、対人関係の喜びは増し、人生の喜びも増えるという訳です。

ありのままの自分を信じることができたのであればきっと、自分の信頼に応えられない相手に傷つく勇気も持てるようになるのだと思います。

「ありのままの相手も信じて」というのは、ディズニーでもあまり聞かないフレーズですから、新鮮かもしれません。

他者貢献とは

他者貢献とは、仲間である他者に対して、なんらかの働きかけをしていくこと。貢献しようとすることです。

これは、自己犠牲してしまうこととは違います。自分を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ自分の価値を実感するためにやることです。

自己受容できれば、裏切りを恐れることなく他者信頼できる。他者を無条件で信頼できる仲間と思えてこそ、他者貢献できる。自己受容、他者信頼がそろって、他者貢献ができるのです。

花が好きだといいながら、すぐに枯らせてしまう人がいます。眺めることだけが好きだったんですね。水をやり、土を変え、毛虫をとってやるということをしない訳です。これでは、愛しているとはとても言えないわけです。釣った魚には餌をやれなくなるのは、愛が足りないんですよね。あゝ耳が痛すぎます。

おしまいに

アドラー心理学「嫌われる勇気」の要約はこちらへ
完結編「幸せになる勇気」の要約はこちらへどうぞ

本書シリーズの中でアドラー心理学は「人生の劇薬」とあります。直視するのがたいへんな心の扉が空いてしまうかもしれませんので注意したいです。

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