生きる目的が分からない、何のために生きているの知りたい。
そんな声を時々ききます。
この記事は、そんな質問をされた方へ、私が答えた回答をベースに、もう少しだけ、補足を加えてまとめ直したものです。
私は人生の目的の設定法のポイントは、次の3つだと思います。
1)大風呂敷を拡げた方がいい
2)誰かに止められてもやりたいことがいい
3)分からなければ一旦「自由と平和」にしておけばいい
この記事を読んでもらえたら、今日からこの問題を解決に向けて動かしていくことができると思います。
では、本題に入ります。
大風呂敷を拡げた方がいい
人には成長欲求というものがあります。そして、現状維持が目的になると心理的には不健全だといいます。つまり、ゴールは、現状の延長線の外にあることが望ましいです。
有名なマズローの欲求5段階説は、人間は自己実現に向かって絶えず成長するという理論です。
原則的には、下位の欲求から満たされ、上位の欲求が現れてきます。これが、どこかで止まったり、逆戻りするのは健全な状態とは言えまえん。5段階の欲求は包括的に満たされていくのが健康的と言えます。
ちなみに、日本人の感覚で言うと、仏教の煩悩という言葉のイメージから、欲求は抑圧するべきものという思い込みがあるかもしれません。しかし、仏教で言う煩悩も、必要以上に欲求に囚われる様子のことを指すのだそうです。
仏教でも、生きるための欲求は正しく満たすのが健全で、何かの欲求に特別にとりつかれてしまうのが不健全だということなのです。マズローの説と概念は一致しています。
以上から、次の事が浮かび上がります。
人生の目的の達成は、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求も適当に満たしつつ、自己実現という成長欲求まで、包摂して満たすことが望ましいということです。
ちなみに、ここでマズローが言う自己実現とは、人が潜在的に持っているものを開花させて、自分がなり得る全てのものになり切りたいと感じる欲求のことです。
潜在的に持っているものの開花です。つまり、現状の外にあるもの。はい、かなり大風呂敷を拡げざるを得ません。
誰かに止められてもやりたいことがいい
現状では達することができないゴールですから、これを目指すのは容易ではありません。そして、そもそも、現状の外のゴール、というワケですから、現状の自分が変わらなければなりません。
だから、何がなんでもやりたいこと。人に止められたとしてもやりたいこと。そういうものをゴールに設定するのが大前提です。
こんな風に語るのは、認知科学者の苫米地 英人 氏です。
逆に言うと、「それができるのなら、私は変わります!」と思えるくらい、切望できるゴールであるといいワケですね。
分からなければ一旦「自由と平和」にしておけばよくない?
突然、そんなスパルタこと言われても、自分には、やりたいことなんて無いんです、とか思う場合には、とりあえず、「自由と平和」の実現。というくらいにしておいて、追って自分らしい目的へ変えたらいいと私は思います。
「人間的欲望の本質は自由である」
そういったのは、19世紀に近代哲学を完成させたと評される哲学者のヘーゲルです。そもそもだれでも心の奥底では、生きたいように生きたい、と思っています。一方で、自由になりたいという一心で、人類は多くの争いも起してきていて、それが今も絶えません。
だから、「自由と平和」の実現は、誰しもが心の奥底から願い、現状の延長線の外にある、長年の人類の共通の目標です。もし、これにピン!とくるものがあるなら、一旦、こういうものを仮説的に自分のゴールに据えてみて、まずは動かしてみることが大切な気がします。
「私は人生を通して、自由と平和で満たされた、社会の実現に貢献している。」
はい、かなりな大風呂敷ですね。。だからこそ、現状の外のゴールでありながら、しかし、人類共通の根源的な欲求のために、どんな立場の人からも、これを願い、ここへアプローチすることができそうな気がします。
かなずしもこの「自由と平和」でなくてもいいです。ひとつの例です。思うのは、これくらいカジュアルに考えて、ますは始めてみる、がいいのではないかと思うワケです。
もちろん、自分がなにがなんでもやりたい、と思えるものがあるのが一番です。ぶっ飛んだ、現状の外の目的を自分の腑に落として、誰になんと言われようとも実現したいと思えた時に、脳は普段使っていない、物凄いクリエイティビティを発揮するそうです。
おしまいに
生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求も抑えつつ、自己実現という成長動機まで、包括した目的を持って生きられれば、生まれてきた甲斐もある、というものです。
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