自由過ぎて辛い時代に

共同体感覚

爆速で億ぶち上げて!

やりたいことやろうぜ!

生きたいように生きようぜ!

と元気いっぱい動き回る、そんな若き自由人たちを本当に多く見かけるようになってきました。

はじめは、エゴだけで突っ走っていたようだった人も、お金儲けをすればするほどだんだんと、それを社会貢献への対価と捉えるようになっていって、当たり前のように共同体感覚を育んでいく…

違っていたら、すいません。はたから見ていてですが、どうやらそんな風にうかがえるのです。

しかし、その一方で、

どう生きても自由だと言われると、かえってどう生きていいか分からなくなってしまった悩んでいる人。

過酷な自由競争社会の中で至ってしまった深刻な格差社会を恨んでいる人…。

そんな人たちも急増しているようです。

この記事では、今、本当に自由になってきた社会が私たちにとって善なのか悪なのかについて考えます。

どう生きても自由だと言われると、かえってどう生きていいか分からなくなってしまったら

それも自由だと考えてみてください

どう生きても自由だと言われると、かえってどう生きていいか分からなくなってしまったら…

たくさん迷っていいんです、思う存分。

生きたいように生きることができるというのはそういうことです。乗り越えていける葛藤なら、それは財産になります。

現代の自由な社会では、機会の平等は比較的約束されています。誰でも、いつからでも、どこからでも新たなスタートがきれることになっています。

少し前、高度成長期の日本には、そういう自由はありませんでした。決まったレールに横一戦に並ばされて、せーの!でスタートさせられて。

一度脱落した人が、おしまいという訳ではありませんでしたが、そこから、爆速で億稼ぐ!なんていうことは、とても考えられない世界でした。

そもそも、一般の家庭に生まれて、爆速で億!は無理なシステムでした。出る杭は必ず打たれました。

だから、ゆっくりたっぷり迷って、あなたらしい自由な生きる目的を見つけてください。慌てなくて大丈夫です。

自由と安定は矛盾しません

自由を選ぶと、ハイリスクハイリターン。安定を選べば、ローリスクローリターン。

自由と安定は相容れないのだ!という考えが良く見受けられますが、でも、私は、決してそんなことはないと思います。

自由は、生きたいように生きたいということですから、このうちに安定という欲求も包摂されています。あなたがあなたの安定を掴むのも、あなたの自由のひとつです。

人間の持つ欲求は、安心安全安定も、生理的欲求も、所属や愛の欲求も、承認の欲求も、自己実現の欲求も、さまざまありますが、こういった人間的欲求を叶えていくことが自由です。

人間のさまざま欲求は、これらすべてが完璧に叶うことなどありません。叶うことが無いからこそ、そこを乗り越えていく時に、解放感を感じます。これです、自由って。

つまり、安定したいという欲求の実現も、まず心にそれが立ち上がって、何かの行動をして、それが叶って、そこにあった制約から解放される、自由なのです。

欲望の数だけ、自由を感じる可能性があるわけです。

ちなみに「人間的な欲望の本質は自由である」といったのは、私の持論ではなくて、ドイツの哲学者ヘーゲルです。

権威にはご用心

それと、自由の価値を見失った時は、権威にはご用心です。

イギリスやフランスの革命によって広まった、自由という価値観ですが、実際に手に入れてみると、それは孤独との戦いでした。そんな自由を持て余した民衆を飲み込んでいったのが、ヒトラーのナチスです。

ファシズムの信奉者たちは、ヒトラーという権威のために喜んで自己を犠牲にする一方で、その心のバランスを取る為に、自分たちより弱い立場のユダヤ人を虐殺し、自分たちの劣等感を解消しようとしました。

社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、この非合理的なナチズムの専横をささえた社会的性格を、権威主義的性格と名付けました。

結果的に、ファシズムのイタリアやドイツが中心になり、日本もまざり、第二次世界大戦に及びました。世界中で数百万人が死んでいったのです。日本も酷い目にあいました。

このきっかけを心理学的に解けば、せっかくに手にした自由から逃走してしまったためであったのです。

政治的にこのようなことが起こるかどうかは分かりませんが、自由の価値を見失ってしまった時、人間は権威にすがり、制約に依存して、酷い目に合う、という苦い経験をしています。

過酷な自由競争による深刻な格差社会をどう生きるか

過酷な自由競争社会の中で至ってしまった深刻な格差社会にどう生きるか?

こいう議論が良くありますが、これについての答えはシンプルだと、私は考えています。

みんなでみんなの権利と安全と自由を保障することです。

あまりの格差は埋める必要があると思います。それは、権利や安全や自由が脅かされるからです。

しかし、格差を感じる私たち下々のものに、格差自体が特別何か悪さをするわけではありません。あるとすれば、嫉妬や妬み?くらいですかね。くだらないから止めましょう。大切なのは「保障」の仕組みをみんなで考え整えることです。

たとえば、この時、冒頭で例に挙げた若武者たちの、彼らが爆速で稼いだ億!を全部取り上げてしまったら、社会の活力自体が失せてしまいます。

民間のビジネスや税制度などで、適切な富の再分配をするというバランスの問題です。

現状、格差社会の餌食になっている私たち下々の者こそ、ここに着手できる知見を持っているともいえるのです。

おしまいに

私は時々、自由を飲み込めない人たちに、メッセージしたくなるのですが、いつも、どうも、上手く気持ちを形にすることができていない気がします。

また、こんな記事を書き直すかもしれません。

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